真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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捕虜刺突訓練と決めつけ攻撃

2008年03月17日 | 国際・政治

 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」
 「此には銃殺より刺殺が効果的である」

 上記のような訓練が常態化していたと思われるが、初年兵として実際に中国人捕虜の刺突を命ぜられた土屋芳雄氏(後に憲兵となった)の証言を聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)から抜粋する。

鬼になる洗礼----------------------------
 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。
 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。

・・・

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「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしてい
なかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。
 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・

独立守備隊の対ゲリラ戦-----------------------
・・・
 7月7日のある日、鄭家屯のそばの大林駅の近くで鉄道が爆破された。「それ!」と、土屋らは鄭家屯から現場に向かった。すぐ近くまでたどり着いた時、関東軍の飛行機五機が飛んできて、大林駅近くの中国人たちの集落に爆弾を投下した。
八十戸ほどの集落は、爆発音と共に砂煙上げ、約四十戸の民家は完全に崩壊した。爆撃といっても、当時は操縦席から迫撃砲弾を手で投げつける程度のものだった。住民にとっては、たまったものではない。土屋たちの部隊の隊長が、関東軍に鉄道爆破の連絡をしたことによって飛来した爆撃機だが、その八十戸の集落が鉄道爆破と関係あるかどうかは全く不明だった。むしろ、何の関係もなかったのではないか。いわば、盲爆であった。

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・・・
 二日間の行動で一人の抗日軍も捕らえることができなかった。大隊長は怒った。三日目に、配下の四個中隊の約四百人を鄭家屯に集結させ、鉄板で覆われた装甲列車や天井のない貨物列車などを編成して出発した。土屋たちに目的地は知らされていなかった。出発して間もなく、列車は停止した。鄭家屯駅の北、約八キロの小高い丘だった。大隊長は、列車から見える約二キロ先の百五十戸ほどの集落を攻撃目標と指示した。「あそこは抗日軍の巣だ」ということだろう。むだ足二日間で、くたくたになっていた土屋たちにとってはどうでもいいことだった。貨車の上から迫撃砲や重機関銃、擲弾筒などの武器が、その集落をにらみ、「撃て!」で、一斉にジャガジャガ撃った。
 土屋は、その時、重機関銃分隊に配置されていた。土屋はもっぱら弾運びや雑用だった。まず、迫撃砲弾が集落で爆発すると、住民らは逃げ惑った。そこへ、重機関銃が火を噴いた。ダ、ダ、ダ、ダッ…。土屋の分隊の重機関銃は一気に二千五百発を発射し、銃身が赤く焼けたほどだった。一時間ほどで攻撃は終わり、再び鄭家屯へ戻った。まったくの撃ち放しだった。大隊長は「抗日軍の本拠地を殲滅し、戦果は…」と、関東軍に報告したのだろう。その集落が抗日軍の本拠地でないことは、逃げ惑う農民たちを見れば一目でわかったし、何よりも、反撃の弾が、ただの一発も飛んでこなかった。
・・・

            http://www15.ocn.ne.jp/~hide20
        全文と各項目へリンクした一覧表があります。

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