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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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中国戦線における毒ガス戦 加害証言

2011年03月21日 | 国際・政治
 台湾の霧社事件で初めて実戦使用された毒ガス兵器は、その後、陸軍によって次々に制式化(兵器として正式に採用すること)された。それを受けて、大久野島での生産体制が確立され、日中戦争の勃発以降は、多くの労災事故や健康被害を伴いつつ大量生産体制に入ったのである。そして、中国戦線を中心として、当初は密かに使用されていた毒ガス兵器が、その後形勢不利な状況に陥ると大量に使用されるようになっていった。下記は、その中国戦線における加害証言を「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋したものである。
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                 第9章 戦犯の証言

 「中国帰還者連絡会」


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 藤田茂は武家の生まれで、子どもの頃から武士道精神の薫陶と軍国主義的教育を受けて育ち、戦中は中国を侵略し、中国人民を殺戮する鬼となり、残酷非常で眉ねも動かさずに人を殺し、「鬼将軍」の異名をとった。1945年に日本が投降すると、藤田茂は武勲赫久たる天皇の寵児から一転、中国人民の囚われ人となった。撫順戦犯管理所において、当初は毎日陸軍の軍服を着用し天皇を遙拝して、狂信的な武士道精神を見せつけていたが、学習と反省を通じ、特に中国人民が米国に反抗し朝鮮戦争に勝利したことに多大な感銘を受け、1954年8月、自らの罪を認める自白書をしたためる。

 「私は幼少時より高級指揮官師団長となるまで、40年にわたり、日本帝国主義軍の機構の中で、教育を受け、また部下に対して教育、命令、指導を行い、日本帝国主義のために戦い、一切を捧げてきました。
 戦争が終結した後も私は、侵略戦争の罪悪、とくに日本帝国主義の罪悪についての認識がありませんでした。
 戦犯管理所の助けによって、私ははじめて夢から醒めたのです。ここで、私は過去の過ちを心の底から悔い、中国人民の目の前で頭をたれ、徹底的に罪を認めることを決心したのです……。
 高級指揮官の身分により、私の命令の下……殺害した中国人民の数は総計約1万名……私の犯した罪の中でも最も重いものは、兵士の精神を鍛錬する目的で捕虜を刺し殺したことです」。


 戦争の性質を知ることによって、自己の罪をしりことに彼は自分の姉の一家が広島の原爆で亡くなったことを知って、軍国主義こそが凡ての悲惨さを生み出す源であることを強く思い知った。このとき、藤田茂は過去の自己を徹底的に否定することを終え、真理を求める旅をはじめたのである。
 1956年6月、藤田茂は沈陽特別軍事法廷において裁判を受け、懲役18年の判決を下された。
 裁判官にコメントを求められると、藤田は感激してこう答えた

 「私の罪に照らせば、1万人の藤田茂を殺して当然なのです。凶悪な日本帝国主義が私を人食う野獣に変え、私の前半生の天にも恥じる罪を作りました。中国政府は私を教育し真理に目覚めさせ、私に新しい命をくれました。この厳粛な中国人民の正義の法廷において誓います。私の後半生を断固、反戦と平和事業のために捧げます」。

 彼の言葉に偽りはなく、帰国すると「中帰連」の先頭に立ち、戦争の非を暴き、日中友好を促すために多くの仕事をした
。……
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 戦犯たちの戦後50年

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 絵鳩さんは朗読を終えると、自分の証言を付け加えた。以下はその証言である。

 「1942年5月から1945年6月のあいだ、私の大隊本部は山東省の新泰県というところにありました。毒ガスにについて詳しくはないのですが、討伐に行くときには必ず防毒マスクの携行を義務づけられていましたし、さらにどのような作戦でも、必ず砲兵中隊はあか筒とみどり筒を携行しておりました。1943年3月、私たちは新泰県から数キロ離れた羊流店というに、討伐に行きました。そこには抗日軍がいて、私たちの大隊は討伐隊を編成して、夜間に出発し、夜明け前に村を包囲しました。隊長の命令で私たちは村に向けて毒ガス弾を発射し、村から飛び出してきた抗日軍に向かって射撃しました。そのとき使ったのがあか筒だったかみどり筒だったか定かではないのですが、毒ガスを使うのはいつものことでした。
 私は初年兵教育を佐倉で受けましたけれども、そのときわれわれの訓練項目のなかには毒ガスの教育が組み込まれていたのです。それは各自に防毒マスクが支給され、どのように毒ガス筒を使うのか、どのように防毒マスクを使うのかを教えられました


 絵鳩さんの話が終わるとすぐ、隣の金井貞直さん(旧姓田村)が立ち上がった。前に出ているなかで彼は比較的健康そうで若く見えたが、すでに76歳であった。彼は中国で戦犯として再教育を受けていた1954年10月8日、毒ガス使用について次の証言を行った。

 「1942年7月中旬、第59師団54旅団独立歩兵第110大隊(兵力約330名)は山東省萊蕪県旧寨鎭西北の九頂山山麓の村落に侵攻しましたが、八路軍とは戦火を交えることはできず、村人を虐殺しました。私は大隊長、藤崎秀一中佐の命令により、歩兵砲中隊長、手塚好雄中尉とともに連帯の砲兵小隊にくしゃみ性ガス弾3発を発射するよう命じました。弾は村の中央の民家に命中し、老人、婦人あわせて15名を殺害しました」

 彼は以上の証言をくり返した後、確信に満ちた口調で、次のように語った。

 「日本軍はこれまで窮地に陥ったとき、もしくは撤退時にしか毒ガスは使わないといってきましたが、それはまったくちがいます。1942年、私が第59師団に編入され中国に赴いた当時、八路軍のいる村を包囲してから毒ガス筒を発射していました。これは明らかに国際法に違反する犯罪です。私は現在、化学兵器を使った行為をひどく恥じ、後悔し、申し訳なく思っています」


 金井さんが発言していたとき、隣に座っていた銀髪の金子安次さんは落ち着かない様子だった。はたして、金井さんの話が終わるか終わらないうちに金子さんは立ち上がると、まず、自分が山東省新泰で参加討伐戦で毒ガスを使った経緯を話し出した。

 「1941年10月中旬、44大隊は新泰県の某村に侵入しました。第2中隊、有森元治大尉の指揮で催涙性毒ガスを放って攻撃をかけ、八路軍の兵士30名および民衆120名を惨殺しました。私はガス弾1個を放ち、わら山に火をつけ、村に火事を起こしました。同時に歩兵銃で、村から逃げ出してきた3名の農民を銃殺しました。火が収まると、村に侵入し、農民5名が井戸に身を隠すのを見つけ、上等兵の鈴木松太郎とともに60キロくらいある石と、さらに手榴弾を井戸に投げ込み、彼らを惨殺しました。

 そのときの進攻は今でも私の記憶に残っています。私は杉という老兵と一緒に一軒農家に踏み込み、1人の女性がいるのを見つけました。杉は強姦しようとしましたが、その女性が必死に抵抗したため、怒って軍刀でその女性の頭をかち割り、その死体を外の井戸に投げ込むのを私に手伝わせたのです。そのとき、4歳ぐらいのこどもが『媽媽(マーマー)(お母さん、お母さん)』と泣き叫びながら、椅子を井戸のところにもって来て、見る間に井戸に飛び込んだのです。杉は井戸に手榴弾を投げ込みました。このときの悲惨な情景は一生忘れません。

 私はいつもいうのですけれども、子どもたちは戦争のことをなにも知らない。知ろうともしない。たとえば私たちの帰還者連絡会で出した侵略戦争を批判した本もたくさんあるんです。その本を読めといってもなかなか読んでくれない。『お父さん、これを読んだら怖くて飯が食えないよ』と途中で投げ出してしまう。私は、若い人が戦争のおそろしさを知り、戦争の事実を知って、戦争が起こることを防いでほしい。それが戦争をやった私たちのやらねばならない任務であると思います」

 多くの人が金子さんの発言に共鳴したのだろう。場内に拍手が起こった。……。

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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