真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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戦争賠償・被害者補償 タイ/ビルマ(ミャンマー)/ベトナム/ラオス/カンボジア/ミクロネシア

2014年05月17日 | 国際・政治
 日本の裁判所は、アジア諸国の戦争被害者を原告とする補償要求の訴訟において、一貫して「棄却」の判決を下してきた。サンフランシスコ講和条約や”二国間条約(協定を含む)における「請求権放棄」で「解決済み」”ということがその根拠のようである。でも、解決したのは「国家間賠償」であり、現実に被害者の補償はほとんどなされていない。したがって、「解決済み」ではないと思う。
 「国際法は、国家をその法主体とし、国家の行為および国家関係を規律する法であると定義され、国際法によって権利を享受し義務を負うのは国家だけである」というような法理論を持ち出す人もいるようであるが苦しい言い逃れであると思う。

 日本国憲法で保障されている個人の財産権(請求権含む)にも関わる、戦争被害者の賠償や補償の請求権を、国家や条約締結者が、本人に何の相談もなく個人に代わって放棄できるとする考えは、納得できるものではない。戦争被害者の被害状況を調査・確認することなく、被害者個人の請求権を国家や条約締結者が被害者に代わって勝手に放棄できるということであれば、それは民主主義の国とはいえないし、法治国家ともいえないように思うのである。

 戦後のサンフランシスコ講和条約、およびサンフランシスコ講和条約に基づいて日本がアジア諸国と締結した二国間条約や協定によって「放棄」されたのは、国家の外交保護権であり、それが、戦争被害者個人の請求権をも消滅させたと考えることはできないし、してはならないと思う。日本国憲法で保障されている個人の財産権(請求権含む)の否定につながると思うからである。現に、日本人が被害者とし、補償を要求しているシベリア抑留者国家賠償請求訴訟に関しては、1991年3月の参議院内閣委員会で、高島有終外務大臣官房審議官が

私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。

と言っている。「日ソ共同宣言」で、日本とソ連がお互いに請求権を放棄したが、それはシベリア抑留被害者個人のソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないと答弁しているのである。日本政府は、言い逃れを繰り返すのではなく、この答弁に沿った補償を誠実に開始するべきであると思う。アジア諸国の戦争被害者が、ほとんど何の補償も受けていない現実を直視すれば、「解決済み」として放置できる問題ではないはずである。日本国民のソ連に対する請求権を認めておきながら、アジア諸国の戦争被害者の日本政府に対する請求権は「放棄」されているというのは、通らない。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、タイ・ビルマ(ミャンマー)・ベトナム・ラオス・カンボジア・ミクロネシアの「個別の賠償条約、経済協力協定の締結」の部分を抜粋したものである。
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             第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結


(7)その他の国々

①タイ

 1951年のサンフランシスコ対日講和会議後、日本とタイの国交が回復したが、戦争中に日本がタイから円建ての清算勘定協定に基づいて発生していた借越残高約20億バーツのうちの未決済分の16億バーツ「特別円」問題があったが、1955年7月9日に、バンコクで「日・タイ特別円協定」を調印した。

☆「日・タイ特別円協定」特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定
第1条 日本国は、54億円に相当する額のスターリング・ポンドを5年に分割してタ
     イに支払うものとする。
第2条 日本国は、経済協力として、96億円を限度として投資及びクレジットの形
     式で日本国の投資財及び日本人の役務をタイに供給する。
第3条 タイ政府は、「特別円問題」に関する日本国の政府及び国民に対する全て
     の請求権をタイ政府及び国民に代わって放棄する。(要約)

 ところが、この協定の第2条の96億円の支払いに関して協議が難行し、1962年1月31日に「日本・タイ特別円新協定」をバンコクで調印して決着するに至った。


☆ 「日・タイ特別円新協定」特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定のある規定に変わる協定

 1955年7月9日の協定の第2条、第4条を変更する。
第1条 96億円を日本国の通貨で8回の年払いで支払う。
第3条 第1条の金額は、日本国の生産物並びに日本国及び日本国民の支配す
     る日本国の法人の役務のタイ政府による調達により生ずる経費の支払い
     のために使用されるものとする。(要約)

 支払われた円は、タイ国防省被服工場、ナムプン発電所建設、国鉄車輌及び資材購入などに使用されたが、1970年5月の全額返済時点で30億円余の未使用があり、タイ政府はこれを興業基金に委譲し民間企業による日本製品の買い付けに使用させた。この日本製品の買い付けが、タイへの日本企業進出の大きな足掛かりとなった。

② ビルマ(ミャンマー)

 1950年3月、当時日本を占領し統治していた連合軍総司令部が日本政府を代表して日本とビルマとの間で貿易協定を締結、当時食糧不足であった日本に大量の米が輸入された。
 1951年のサンフランシスコ講和会議にはビルマは出席しなかったが、1952年1月から平和条約締結のための交渉に入り、1952年4月戦争状態の終結を通告、1954年11月5日、平和条約、および賠償および経済協力に関する協定が締結された。
 平和条約第5条では、「日本国は戦争中に日本国が与えた損害および苦痛を償うためビルマ連邦に賠償を支払う用意があり、また、ビルマ連邦における経済の回復および発展、並びに社会福祉の増進に寄与するための協力をする意思を有する」とし、しかし、日本の資源はビルマおよびその他の国に対し戦時中に与えた損害および苦痛に対して完全な賠償を行い債務の履行をするには充分でない(この文言は対日平和条約第14条aとほぼ同じである)として、年間2,000万ドル(72億円)に等しい役務および生産物の10年間におよぶ提供および年平均500万ドル(18億円)におよぶ経済協力の10年間にわたる実施について約定し、同じ内容の賠償および経済協力に関する協定を締結している。


 なお、第5条1、a、Ⅲでは「日本国は、また他のすべての賠償請求国に対する賠償の最終的解決の時にその最終的解決の結果と賠償総額の負担に向けることができる日本国の経済力とに照らして公正なかつ衝平な待遇に対するビルマ連邦の要求を再検討することに同意する」との規定を置いている。
 ビルマ政府は1963年に他の国への賠償の方が条件が良かったので追加賠償を要求し、1963年3月29日再協定が結ばれ、日本は1965年から12年間にわたって総額1億4,000万ドル供与および3,000万ドルの借款を約した。

 日本からの賠償により、バルチャウン水力発電所が造られたが、設計は日本工営、鹿島建設が施工し、また、4プロジェクトと呼ばれる製造工場が建設されたが、バス、トラックなどの大型自動車については日野自動車が、乗用車などの小型自動車は東洋工業(マツダ)が、農機具については久保田鉄工(クボタ)、家庭電気は松下電器がそれぞれ担当し、賠償や経済協力の機関が終わってからもODAによる建設作業、部品調達など、日本の経済進出のための基盤となった。
 そして、1988年までの26年間、日本のODA援助の額はビルマに対する2国間援助総額の80% を占めてきた。
 これは、当時のネウイン大統領が日本軍の防諜組織、南機関の援助によってつくられたビルマ独立義勇軍のメンバーであり、ビルマ国軍将校に日本人による教育、訓練を受けた者が多かったなどの事情による。


③ ベトナム

 1959年5月13日、日本とベトナム(南ベトナム)の賠償協定が締結され、1960年1月12日に発効した。
 協定では、第1条で140億4,000万円に等しい生産物、および日本の役務を5年の期間内に供与するとされた。
 しかし、この賠償は当時の南ベトナム政府に対してなされ、戦争被害の最も大きかった北部に対する賠償がなされず、しかも140億円は中部の水力発電所建設に使われた。この建設計画はもともと日本のコンサルタント会社が南ベトナム政府に持ち込んだものであった。
 北ベトナムとの賠償問題は、ベトナム戦争が終わった1975年10月11日署名の「経済の復興と発展のためのブルドーザー運搬用トラック、掘削機等の供与」(85億円)、1976年9月14日署名の「経済の復興と発展のためのセメントプラント用設備等の供与」により事実上の賠償とされた。

④ ラオス

 1957年3月ラオス王国は日本に対する賠償請求権を放棄し、これに対して日本は1958年10月15日、経済および技術協力協定を締結した。
 前文では、「ラオスが日本国に対するすべての賠償請求権を放棄した事実を考慮し、かつラオスが同国の経済開発のためにの経済および技術援助を日本国がラオスに与えることを希望する旨を表明した事実を考慮して」経済および技術協力協定を締結するとされている。
 協定は第1条で、生産物ならびに役務による10億円の無償援助を定め、これに基づいてビエンチャン市の上水道工事、ナムグム発電所建設工事などが行われた。


⑤ カンボジア

 カンボジア王国は1954年にサンフランシスコ条約(対日平和条約)に定められた対日賠償請求権を放棄、日本はこれに応えて、1957年に15億円の無償援助を決定、1959年3月2日、経済および技術協力協定に署名した。
 同協定では前文で「カンボジアによる戦争賠償請求権の自発的な放棄および1955年の日本とカンボジアとの間の友好条約の締結によって顕著に示された両国間の友好関係を強化し、かつ相互の経済および技術協力を拡大することを希望して協定を締結する」とあり、第1条で生産物および役務からなる15億円の無償援助を供与することを約した。
 これに基づき日本は、農業、畜産、医療の3分野における施設とその運営を行った。
 これ以外に1962年からは無償供与および円借款によりプノンペン市の上水道ダム建設に協力、技術指導も行った。
  

⑥ ミクロネシア(パラオ)

 ミクロネシアのうちパラオ共和国は現在も米国の信託統治地域となっているが、ミクロネシア地域については、1969年4月18日、日本と米国の間で、対日平和条約第4条(a)に基づき「太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(米国とのミクロネシア協定)が締結された。

 前文では、太平洋地域の住民が第2次世界大戦中の敵対行為の結果被った苦痛に対し、ともに同情の念を表明することを希望し、信託統治地域の住民の福祉のために自発的拠出を行うことを希望し、日本国およびその国民の財産ならびに請求権、施政当局および住民の財産ならびに請求権の処理に関し、特別取極め締結するとされている。

 そして、日本は500万ドル(18億円)相当の生産物および役務を3年間の間に無償で施政権者であるアメリカ合衆国の使用に供し、アメリカ政府は同地域の住民のために500万ドルの資金を設定し、第3条で財産、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたとする。
 
 協定第3条に関する交換公文では、日本国および日本国民は、役務を3年間の間に無償で施政権者であるアメリカ合衆国の使用に供し、アメリカ政府は同地域の住民のために500万ドルの資金を設定し、第3条で財産、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたとする。


 協定第3条に関する交換公文では、日本国および日本国民は協定第3条の規定の範囲内におけるミクロネシア側の請求(信託統治地域が第2次世界大戦に巻き込まれたことから生ずる請求を含む)に対する全ての責任から完全かつ最終的に免れるとし、かつ、アメリカ政府はその相当と認められる形式 態様および範囲で、アメリカおよび日本による拠出の合計額(1,000万ドル)に見合う金額を限度として協定第3条に規定するミクロネシアの個々の住民の請求につき支払いを行うための措置を取るとされている。
 これに基づき、1971年、ミクロネシア賠償法により戦病死者に対し、最低死亡年齢12才以下に対する補償500ドル、最高死亡年齢21才に対して5,000ドル、支払われた。


3 問題点

(1)締結された条約、協定は、交渉過程においても、その内容においても、日本が行った行為についての真相の究明を行ったものではなく、各国における日本の与えた戦争被害の実態等の把握もなされていない。
 また、日本が被害を与えた国および被害者に対する謝罪も行っていない。(アジア各国を日本の首相が訪問する際に、近時遺憾の意を表明することはあっても、公式の謝罪を行っていない)。

(2)対日平和条約によって、アジアのそれぞれの国が賠償についての交渉をすることになったが、対日平和条約の役務賠償の規定にもかかわらず、具体的交渉の中では、資本財が含まれることになり、日本にとっては、賠償はアジア各国への長期の資本投資を行う機会となり、アジアに新たな市場を形成するのに役立った。


 また、賠償は帯貨商品をアジアに対して捌くのに役立ち、不況産業の再興にも役立った。更に、賠償が輸出と競合しないよう貿易振興方針を、インドネシア、ベトナム、との間では賠償協定で規定し、フィリピン、ビルマとも合意し、賠償が通常の貿易の妨げとなることがなかったばかりか、賠償を利用して新たな貿易の販路を拡大した。日本は賠償交渉にあたって、当初は額をいかに抑えるかで交渉に臨み、交渉過程の中で、賠償を投資として条約、協定を締結した。また、相手国についてもその為政者自身の権力維持、経済政策の推進などのためのものとなっている。
 このように、日本の賠償、経済協力は、被害者の視点を欠くものであったことは前項で記したとおりである。

(3)このため、実際にも、日本から無償援助、経済協力をもとにして、戦病死者に金銭が支払われたのは、韓国の30万ウォンおよびミクロネシアの最低500ドル最高5,000ドルのみであり、被害者個人に対する補償はほとんどなされていない。
 対日平和条約第16条に基づく捕虜への補償は、各人への補償額は小額(70ドル)にすぎなかったとはいえ、ICRC(赤十字国際委員会)によって行われ、捕虜である被害者個人への補償がなされている。
 ここでは、賠償が投資にかわったり、経済協力におきかえられたりしてはいないのである。
 事実の究明もされていないのであるから、被害者個人は今なお放置されているといってよい。

(4)賠償に関する、日本国民1人当たりの負担額についてみると、総額が、賠償10億2,500万ドル(3,565億5,000万円)、無償経済協力4億9,567万ドル(1,686億9,000万円)、合計15億776万ドル(5,252億4,000万円)であり、通算して、1人当たり5,000円であった。(原朗、「賠償戦後処理」大蔵省財政史室編『昭和財政史・終戦から講和まで』東洋経済新報社)
 しかも、その支払いは長期であり、最後のフィリピンに対する20年の支払いが終わったのは、1976年であった。


(5)前項で述べたように対日平和条約自体がそうであったが、その後の各国との賠償交渉も、冷戦構造のもとでのアメリカのアジア戦略の中に位置付けられ、交渉の要所、要所で、アメリカが大きな役割を果たしており、締結を渋るようであればアメリカの経済援助を考え直すと脅かすなどがなされてきた。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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