真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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靖国神社、神社本庁、神道政治連盟 NO2

2019年02月26日 | 国際・政治

 靖国神社には、”朝命を奉じ、国家防衛という公務のために死没した殉国の英霊”が合祀されているといいます。だから、戊辰戦争のいわゆる「賊軍」の死没者や東京大空襲犠牲者、広島長崎被爆犠牲者、その他一般の戦争犠牲者は祀られていないのです。「祭神」として祀られるのは、”天皇のもとに統合された国民国家の防衛のために死没した殉国の英霊”だけなのです。

 戦時中、戦没者の遺骨を迎える際やラジオ放送で玉砕を伝える際に流されたという、「海ゆかば」には、
海行かば 水漬(ミヅク)く屍(シカバネ) 山行かば 草生(クサム)す屍 大君の 辺(ヘ)にこそ死なめ かへり見は せじ
とあります。進んで命を捧げ、”天皇に寄り添って死のう、後ろを振り返ることはしない”というような意味だろう思います。
 天皇や国家防衛のために死ぬことを讃美する歌で、”靖国神社で会おう”と言って死んで行った多くの日本兵の思いなどを考え合わせると、靖国神社が「戦争神社」といわれても不思議はないと思います。
 靖国神社は、まさに、戦争のための神社、神道は、まさに、戦争のための宗教であったように思うのです。

 その靖国神社に、1978年(昭和53年)東京裁判の「A級戦犯」として処刑された14人が合祀されました。それ以降、昭和天皇は靖国神社に参拝せず、『…だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ』ともらしたことが、元宮内庁長官・富田朝彦氏の日記に残されていたといいます。「靖国神社が消える日」(小学館)の著者、宮澤佳廣氏は”その信ぴょう性に疑問を挟む余地はないと考えました”と書いています。
 であれば、靖国神社にとっては大問題であり、戦後一宗教法人になったとはいえ、創建以来の靖国神社の存在意義が失われたと言っても過言ではないと思います。”大君の 辺(ヘ)にこそ死なめ”とうたわれている”大君”が参拝しない靖国神社の存在の意味は、何だというのだろうと思います。

 また、侍従・卜部亮吾の「卜部亮吾侍従日記」の2001年(平成13年)8月15日には、「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」と記述されていたといいます。靖国神社を代表する宮司が、天皇から”大馬鹿”と言われてなお、靖国神社がそのまま変わらないということは、創建以来の靖国神社の考え方からすれば、あり得ないことだと思います。でも、靖国神社は問題を抱えたまま、特に大きく変化することはなく、首相や閣僚、国会議員の参拝がその後も続いています。変わりようがなかったのではないでしょうか。

 それは、人間である天皇を現御神(アキツミカミ)=現人神とし、その現御神の命にしたがって戦死した者のみを「英霊」として祭る靖国神社が、現実的に深く戦争や政治にかかわったためにぶつかった矛盾ではないかと思います。「A級戦犯」14人は、戦死ではなく刑死ですが、「A級戦犯」14人とともに日本の戦争や政治をリードしてきた靖国神社としては、「A級戦犯」を冷たく突き放すことができず、刑死でも、英霊として合祀せざるを得なかったのではないかと思います。一方、靖国神社創建以来、現御神(現人神)としてきた天皇に、無理矢理参拝させることもできなかった、ということではないかと思います。

 神話に基づき、人間である天皇を神と結びつけたり、いかなる戦争であったのかを振り返ることなく、天皇のもとに統合された国民国家防衛のために死没した者のみを殉国の英霊として祀るという差別をしたり、また、靖国神社の国家護持を主張して、国の政治に直接関与したりすることを改めないと、靖国神社が国民的合意を得ることはできず、また、近隣諸国の理解も得られないだろうと私は思います。

 下記は、「靖国神社が消える日」宮澤佳廣(小学館)から、一部を抜粋しました。
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                  第七章 「富田メモ」と「A級戦犯合祀」の真相

 昭和天皇の不快感
 今日の「靖国問題」が憲法問題という基底の上に堆積した様々な問題の総体である以上、「A級戦犯」問題の解決が「ゴルディアスの結び目」を一刀両断する「剣」にならないことは自明のことです。とはいえ、それが「靖国問題」の核心をなしているという認識が一般に共有されていることも、また事実です。
 靖国神社に「A級戦犯」と称される14人が合祀されていることで誘発される議論は多面的です。それを合祀したことが良かったのか、悪かったのかという二者択一的な議論で整理収拾がつかないのは、合祀を是とする立場であっても、その際の判断や手続きについて賛否が分かれるからです。祭神は宗教法人である靖国神社の自由意思で決定されるものと割り切ってしまえば話は簡単ですが、靖国神社は公式にはそうした態度表明はしていません。そう断言することは、靖国の創建以来の伝統を切断することにもなるからです。
 そうした中、「A級戦犯」の合祀に昭和天皇が不快感をしめされた、という趣旨のメモが元宮内庁長官である富田朝彦氏の日記に残されていたことが報じられたのは、平成18年7月20日のことでした。スクープしたのは日経新聞。「A級戦犯 靖国合祀 昭和天皇が不快感」との大見出しが打たれたその記事には、「昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感を示し、『だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ』と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い」と記されていました。 

 私はこの報道に接したとき、「富田メモ」の内容は事実で、その信ぴょう性に疑問を挟む余地はないと考えました。最大の理由は、昭和61年の「この年の この日にもまた靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という昭和天皇の御製(ギョセイ=天子のつくった詩歌)にありました。この御製と「A級戦犯」の合祀を無関係と否定するのは到底困難だと感じていましたから、「昭和天皇の不快感」を事実として受け止めて、対応を図るしかないと思ったのです。
 ・・・

 昭和天皇の御憂慮
 「富田メモ」の内容が事実だとすると、靖国神社にとっての懸念は「はたして昭和天皇はA級戦犯合祀に反対だったのか?」といった点に絞り込まれてくることになります。しかも、「A級戦犯合祀に反対」という場合、少なくとも2通りの見方(意味合い)があるはずでした。その一つは「昭和天皇は、将来にわたってA級戦犯は祀られるべきでないと考えていた」という見方であり、もう一つは、「昭和天皇は、あのような時期にA級戦犯を祀るべきではない考えていた」という見方です。当然、私は後者の見方で意見書を作成しました。…

 国民不在の「A級戦犯合祀」
 私がこうした趣旨の意見書を作成したのは、第二章で触れた靖国の国家護持(国家管理)の話にも関連しています。神道の弁護士とも呼ばれた思想家・葦津珍彦(アシヅウズヒコ)氏は、「A級戦犯」合祀についてもこう批判していました。

”昨年たまたまA級政治戦犯が合祀されるとのニュースを見た。しかも一流某週刊誌には、そのニュースとともに、今では靖国神社は、国家護持を望んでいないとの記事がでた。これは護持理論を主張してきた私にとっては、非常なショックであった。この「政治」戦犯犠牲者合祀については、私は委員に参加のころ同意しかねた。「靖国神社が宗教法人としてならば、政治戦犯合祀をするのも全く自由であるが、これは前例の確たるものもないし、神社が国家護持を目標とするかぎり、事はきわめて重大である。国家護持ができて後に、公の国民のコンセンサスの上で決すべきだ。これは伝統祭祀を少しも変えないで来た、とする主張とも相関連するし、少なくとも今は其の時ではあるまい」とした。(『中外日報』昭和55年「公式参拝の問題点」)”

 「靖国の公共性」という観点でこの問題を考えはじめていた私にとって、この葦津氏の指摘はきわめて重い意味を持つようになりました。ここで、靖国神社が「A級戦犯」を合祀するに至った流れについて簡単に触れておきます。

・昭和44年の総代会で「将来は合祀すべきものと考えているが、現段階においては暫くそのままとして差し支えない」との意見の一致があった。
・昭和45年の総代会で青木一男氏(元大東亜相)から「速やかに合祀すべきだ」と提案があり、筑波宮司が「時期は慎重に考慮し、御方針に従い合祀する」と回答した。(筑波藤麿宮司の「宮司預かり」発言)
・昭和53年10月6日の総代会で「A級戦犯合祀については、昭和45年6月30日の総代会に、時期を見て合祀する旨決定されており、今回これを合祀することとした」という合祀の報告があった。

 この一連の手続きは、「公務死裁定」という「official」としての公共性に依拠するもので、靖国神社の諸規定に基づいて行われており、その手続きにおいて瑕疵はありませんでした。戦後、祭神合祀の最終決定は宗教法人である靖国神社に委ねられているからです。

 「富田メモ」が問いかけたもの
 私は「富田メモ」がといかけたもの、ぼやかされてしまった問題の核心は「靖国の英霊祭祠の主宰者はだれなのか」という問いかけそのものであったような気がしています。それは深層において、「昭和天皇の不快感」にまでつながっているのだと思うのです。「其の合祀は戦役事変に際し国家の大事に斃れたる者に対する神聖無比の恩典」とは、昭和15年8月14日の陸軍次官通牒に見える表現ですが、靖国の祭神合祀を「神聖無比」たらしめるのは天皇の存在を措いてほかにないからです。
 ・・・
 私が「忍びがたい」という言葉にこだわるのは、こうした理由からです。そして国家護持の必要性を主張する理由もここにあります。私は現御神(アキツミカミ)とされた天皇の神秘性によって神とされるよりは、むしろ、国家と国民の象徴としての天皇、「common」の中心軸としての天皇の存在によって、国家と国民の守り神として公認されるといった平易な理解をしているのですが、筑波宮司から松平宮司への交代に際して、この「忍びがたい」という意識が継承されていたのかどうか、そこが問われているのだと思います。万が一にも、その意識が欠落して、松平宮司自らが靖国の英霊祭祠の主宰者になったといった錯覚に陥っていたとしたら、宗教法人である靖国神社の宮司によって国事殉難者の御霊が神霊とされ、「靖国の神」に合祀されたことになります。宗教法人前の本態としての靖国神社の祭神とは本質的に異なる祭神ということになりはしないか。これは「信仰的確信」の領域での話です。

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                 第八章 突如浮上した「賊軍合祀」論
突如浮上した賊軍合祀論
 平成28年10月12日の昼過ぎ、靖国神社の到着殿前には多くの報道陣が詰めかけていました。この日、亀井静香・元金融担当相や石原慎太郎・元東京都知事らが、徳川宮司に面会して「賊軍」とされた戦没者の合祀を申し入れることになっていたからです。
 面会を終えた亀井氏は、記者団に「(合祀は)世界のなかで日本が平和を発信していく基本になる」と語り、靖国神社は「ただちにそうしますとは言えない」と述べたといいます(産経新聞・平成28年10月13日付)
 亀井氏は、一体、どのような理由で「賊軍合祀」を申し入れたのか、申し入れ書でまず確認してみましょう。

”我が国は古来より神羅万象全てに八百万(ヤオヨロズ)の神が存在し、弱きものに寄り添う判官贔屓(ハンガンビイキ)という心を育んだ。世界でも類を見ない寛容さを現代に至るまで連綿と引き継いできた国であることは間違いありません。
 神話の国譲りに始まり、菅原道真公を祀る天満宮や、将門首塚など我々日本人は歴史や文明の転換を担った敗者にも常に畏敬の念を持って祀ってきました。
 そのような中で西郷南洲や江藤新平、白虎隊、新選組などの賊軍とされた方々も、近代日本のために志を持って行動したことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸霊が靖国神社に祀られていないことは誠に残念極まりないことです。
 ご承知とは存じますが現在も会津では長州人を嫌うといった官軍・賊軍のわだかまりは消えておりません。今日世界中が寛容さとは真逆の方向に突き進んでいることから、我が国の行く末も案じられてなりません。
 有史以来、日本人が育んできた魂の源流に今一度鑑み、未来に向けて憂いなき歴史を継いでいくためにも、靖国神社に過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀するよう申し出る次第です。また、戦というのは歴史工学的には社会に一時の荒廃をもたらしますが、その後の社会に、ある安定とさらに進化をもたらし、明治維新で起こったもろもろの戦は、結果として日本という国家の機軸を安定させる功があったと考えられます。それ故に陛下ご自身による靖国神社への参拝は、国家安寧のために必須と信ずるところであり、畏れながら併せて此の儀をお願い申し上げたく存じます。

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 …「申し入れの際に靖国神社徳川宮司はそう簡単にはいかないとの回答でしたが、私はこれを国民運動に盛りあげていき、平成31年6月に迎える靖国神社創建150周年までには是非とも達成したいと考えております」と、その実現に向けた強い決意をしめされています。

 「賊軍」ではなく「東軍」
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「賊軍」合祀がにわかに主張されるようになったのは、共同通信のインタビューで、徳川宮司が「私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津藩も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」と発言し、それが地方紙で掲載されたことに端を発します。
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 ただし、その(賊軍合祀)可能性について徳川宮司は「(賊軍合祀は)無理だ。日本が近代的統一国家として生まれ変わる明治維新の過程で、国家のために命をささげられた方々のみ霊を慰め、功績を後世に伝えるというのが前身の東京招魂社を建てられた明治天皇のおぼしめし。政府に弓を引いた者はご遠慮すべきだろう。」(共同通信配信記事)と答え、靖国神社も「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行う考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」(『週刊ポスト平成28年7月8日号』)と回答。合祀には否定的であるように報じられました。徳川家という宮司の出自が絡んでいることもあって、靖国神社の立場を常に支持する識者からも、それは宮司個人の歴史認識で特段の問題はないといった慎重な言い回しに終始しています。
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 賊軍合祀の危険性
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 祭神の公務死裁定は、神社創建時から戦後の今日に至るまで、一貫して維持されてきた靖国の祭神合祀の大原則です。これが「賊軍」合祀が不可能な唯一絶対の理由でもあります。さらに「宗教法人なのだから、国とは関係なく、宮司の判断だけで合祀できますよ」という亀井氏の助言は、私的な宗教団体の代表者に国の公務死裁定の代行を迫るという意味で明らかに矛盾しています。それは、靖国の祭神の合祀を根底から突き崩す危険性をも秘めているのです。
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 「殉難者布告」と「戦死者布告」
 前者は、葵丑(嘉永6年)以来の国事殉難者(幕末維新の志士たち)の霊魂を祭祀しることを目的に、後者は伏見戦に始まる戊辰戦争の戦死者の霊魂を祭祀することを目的に発せられたものです。「殉難者布告」には「国事」という文字が、「戦死者布告」には「王事」という文字が使われていることがポイントになります。この太政官布告は、明治政府が発した公文書(法令)で、しかも同じ日に発せられたものですから、「国事」と「王事」という言葉が無意識に用いられているとは考えにくい。何らかの意図があるからこそ、使い分けていると考えるべきでしょう。
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 …つまり「靖国の神」として祀られる資格と条件は、それこそ亀井氏の言うような漠然とした「国事に関係して死没した者」(国を想って死没した者)ではなく、朝命奉じて国事のために死没した者(天皇のもとに統合された国家体制によってこの難局を乗り越え日本の国体護持に尽くそうとして死没した者)なのです。
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 この二つの布告の存在は、明治政府が当初、嘉永6年以降の国事殉難者と戊辰戦争での戦死者を大別して祭祀する予定であったことを示していますが、結果的には、二つの祭祀が明治維新関係の「国事殉難者」の祭祀としてまとめられることになりました。『靖国神社百年史』の合祀者戦役・事変別の一覧表にも、明治維新(7399柱)、西南の役前後(7292柱)、日清戦争(1万3619柱)とあり、戊辰戦争の戦没者(3588柱)も明治維新関係の国事殉難者に含まれています。
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 …たしかに亀井氏の言うように、近代日本のために志を持っての行動でしたが、それは天皇のもとに統合された国民国家のための行動ではありませんでした。ゆえに、彼らは「国事」=「王事」に殉じた死没者ではなく、天皇のもとに統合された国民すべてに関連する「共通の神霊」とはなり得なかったのです。靖国の神となる大前提としての公務死裁定とは、150年が経過することで解消されるような「わだかまり」や「汚名」とはまったく別物だと考えなくてはなりません。…

 徳川の逆襲
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 そもそも「靖国の公共性」は、靖国の祭神が国家防衛という公務のために死没した殉国の英霊であって、国家がその死没原因の公共性を認めて「靖国の神」として祀ったその特殊性から発現されています。したがって、「賊軍」の合祀がなされた時点で、そうした神霊とは異質の御霊が合祀されることになるのですから、「靖国の公共性」に疑義が生じることになります。それは靖国神社の存在意義を問うことにつながります。「賊軍」合祀という問題は、靖国神社創建の理念を根本から変容させることを意味しているのです。

 みたままつりの意味
 ・・・
 その当時、権宮司だった池田良八氏は、その頃を振り返って、こう語っています。

”戦後、最初にやったお祭りは、21年に始めた”みたま祭”でした。これも大きなことでしたね。やるにしても、全部連合軍の了承を得てね。神様にあげるんじゃない、遊びだ、子供もたくさんくるし、子供の遊びだ、というようなゴマカシを言って(笑い)、それで、”みたま祭”を始めたんです。(1984年『真世界』)”

 私は、みたまつりは占領下、神社存続のために悪戦苦闘した当時の先人の意志を伝える祭りなのだと感じていました。

 テーマパーク化する「靖国」
 ・・・
 …徳川宮司は神社本庁の「月刊若木」に寄せた特別寄稿でこう説明しています。

”若い世代に靖国神社に関心を持って戴くには、どうしたら「いいだろうかと色々策を練っているところです。それは、今の若者が将来の靖国神社を支えてくださる世代だからです。それにはまず、昨今内外のメディアから伝わって来る靖国神社像と、現実のそして真実の靖国神社の姿の違いに気がついて欲しいと思っています。靖国神社を戦争神社、遊就館を戦争ミュージアムと呼ぶことが、ご祭神に対していかに無礼であるかをわかって戴きたいものです。”

 ・・・
 …徳川宮司がここで言う教化の対象となる若者とは、不特定多数の若者(靖国に関心がなく外苑で飲んで騒いでいる若者)ではなく、特定少数の若者(靖国に何らかの関心や共感を抱いている若者)ということになります。しかし、それで果たして、靖国の将来を支える基盤形成に広がりを持たせることができるでしょうか。逆に、靖国の信仰基盤を狭小化させて、神社の存続を危ういものにするのではないでしょうか。私にはそうした志向にこそ「靖国神社を戦争神社、遊就館を戦争ミュージアム」と誤解させる危険性が潜んでいるように思えてならないのです。

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