真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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捕虜(俘虜) 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約 日本軍の対応 NO2

2014年11月26日 | 国際・政治

OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。一部漢数字を算用数字に変更しています。(HAYASHI SYUNREI) 

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 『南京戦史』(偕行社)には、「発刊に当たりて」ということで財団法人「偕行社」理事長(原多喜三)の挨拶文がある。その中には

皆さんの子弟が使っている学校の教科書を一度ご覧下さい。それには南京戦に於て日本陸軍は20万、30万もの大虐殺を行ったと書かれているのであります。これは戦後、勝者が敗者を一方的に裁いた極東国際軍事裁判に於て、所謂「南京事件」なるものが捏造せられ、反論すべき陸軍は既に無く、その間の真実を伝える権威ある戦史の整備もないことをよいことに、真相不問のまま一方的証言に依りそれが決定づけられ、マスコミまたこれに追従し、大虐殺が何時の間にか定説らしくなってしまったからであります。” 

とある。しかしながら、集められた命令や指示、通牒、訓示、作戦経過概要、各師団・各部隊の戦時旬報や戦闘詳報の記録、陣中日誌等をしっかり読み込めば、簡単に「捏造」などといえるものではないことがわかる。編集責任者(高橋登志郎)はその「あとがき」で、下記のような指摘があったことを明かしている。

(1)編集委員会は何を根拠に捕虜の処断を総て不法と断定できるのか。
(2)かりにできるとしても何故発表するのか
(3)確定できない数字を何故発表するのか
(4)光輝ある皇軍に泥を塗るのか
(5)中国国民に詫びるとは何事か

 それに対し、”我々編集陣は、中国国民に詫びるというような政治的な意図はないし、皇軍に泥を塗るような考えなどあるはずもない、真実の探求のためには臭いものにも蓋をしない態度をとるだけである”と書いている。20万~30万という数字についても、それは確定し得えないが、しかし”判らないからといって口を噤んでいたらどうなるであろうか、それこそ20万~30万を肯定したことになるのではないか”と書いている。”一次資料に依って、究明された数字に基づき、議論”しようとする姿勢は評価されるべきだと思う。

 同書の第6章第3節は「捕虜等取扱いの混迷とその結果」と題されており、その中に

 ”投降する者に当面する部隊にとっては兵力は乏しく戦闘に手一杯である。上級司令部としても、これを収容する機構も扱うべき予備の兵力の用意もない。ましてこれに食わせる食料の準備など皆無なのが現実の姿であった。投降兵は勝利の証しなどと喜んでおられる状態ではなかった。
 敵を撃滅することだけを念頭において戦っていた第一線諸隊は、多数の投降兵出現にさぞ困ったことであろう。その対応がまちまちであったことは一に戦況によるとはいえ前述の指示の不的確、対応準備の欠如が大きな要素といえよう。そしてその責は一に中央部及び方面軍負わなければならないものといえよう。

とある。諸資料を細部まで正確に読み込んだ結果たどり着いた結論なのだと思う。

 下記の資料1は、国崎支隊に対する「丁集作命第十八号」について「多数ノ投降者ヲ見ル今日直ニ全兵力ヲ新任務ニ向ヒ出発セシムルヲ得ス」として「捕虜5千アリ軍ニ於テ処置セラレ」と依頼しているものである。

 資料2は「俘虜ヲ受付クルヲ許サス」という「歩兵第三十旅団命令」である。この命令が、資料3の『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』という電話につながるものであろう。

 資料4は、南京城内粛清査問(兵民分離査問)を命じられた佐々木到一(ササキトウイチ)少将私記の一文である。特に「下関に於て処分せるもの数千に達す」ということばを見逃すことができない。

 資料5は、その佐々木少将が実施した査問の実態について、南京と漢口のアメリカ大使館がやり取りしたものである。正直に申し出た兵士が、約束に反して殺されたと報告している。

 下記の資料1、2、5は『南京戦史資料集』(偕行社) 資料3、4、は『南京戦史』(偕行社)からの抜粋である。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

            通牒、訓示、作戦経過概要、戦時旬報、戦闘詳報、陣中日誌等の部


第四 第十軍

其の三 国崎支隊  「歩兵第9旅団陣中日誌」

   11月14日  晴
一、支隊本部ハ松江ヲ発シ金山ニ到リ同地ニ位置ス
二、本朝8時35分左ノ軍命ヲ飛行機ニ依リ受領ス

  丁集作命第十八号
     丁集団命令 11月13日午後1時  於金山
1~5 略
6、国崎支隊ハ主力ヲ以テ速ニ金山ニ前進シ爾後平望鎮占領ニ任スヘシ
  細部ニ関シテハ別指示ス
  在金山片山部隊ヲ其指揮下ニ復帰セシム
7、河村部隊ハ前任務ヲ続行スルト共ニ一部ヲ以テ国崎支隊ニ協力スヘシ
8、軍通信隊ハ金山ヲ基点トシ第十八師団第百十四師団及国崎支隊ト連絡スル外方面軍司令部内地トノ通信ニ任スヘシ
9、予ハ金山ニ在リ
                   丁集団司令官 柳川 中将

  下達法・第十八師団及第百十四師団ニハ通信筒投下国崎支隊及其他ニハ隊長ヲ招致シ直接筆記交付ス
三、右軍令ヲ受領セルモ支隊ノ目下ノ状況特ニ多数ノ投降者ヲ見ル今日直ニ全兵力ヲ新任務ニ向ヒ出発セシムルヲ得ス且又兵力ヲ一部松江ニ残置スルハ支隊編成上勉メテ避クヘキ状態ニアルヲ以テ左記電報ヲ軍参謀長宛発信セリ
 1、本朝御前8時35分丁集作命甲第18号ヲ受領セリ右ニ依レハ速ニ金山ニ前進シ………アリ
 2、松江ノ守備隊ハ支隊引上後開放シテ良キ哉支隊ノ兵力ヲ残置スルハ兵力関係上避ケラレ度
 3、弾薬ノ補充ヲ本日中ニ実施セラレ度
 4、捕虜5千アリ軍ニ於テ処置セラレ度
  右電報ニ対シ左ノ返電アリ
  本朝岡田参謀ヲ派遣セシニ付同官ヨリ承知セラレ度弾薬ハ金山ニ於テ補充ス

四、同時軍参謀部第二課長井上大佐ヨリ左記書来ル
 1、藤本大佐宛書翰ニ依ル俘虜受領ノ件ハ当方ヨリ派遣セル岡田参謀ニ已ニ其受領及使用法ニツキ指示シ同参謀ハ午前8時発動艇ニテ貴部隊ニ向ヒシヲ以テ同参謀ト協議処理相成度
 2、第六師団第二十三聯隊ハ水路ニ依リ本朝平望鎮ヲ占領其一部ハ北進シ其北方4粁ノ金字港ニ進出セリ
右回答及書翰ヲ受領スルモ全般ノ状況上直接軍司令部ニ於テ交渉スルヲ最モ適当ナル方法ナリトシ午前9時40分支隊長ハ金山ニ先行スルニ決シ松江附近ノ守備ヲ歩兵第四十一聯隊長ニ命ス
同時軍参謀岡田中佐来リ丁集作命第十八号ハ成ル可ク速ニノ意ナルヲ伝ヘ且一部ト交代スヘキヲ命シ併セテ支隊ノ数日来収容セル俘虜ヲ受領セリ

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○歩兵第三十旅団命令   於 中央門外  12月14日午前4時50分

一、敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有スルモノ散在ス
二、旅団ハ本14日南京北部城内及城外ヲ徹底的ニ掃蕩セントス
三、歩兵第三十三聯隊ハ金川門(之ヲ含ム)以西ノ城門ヲ守備シ下関及北極角ヲ東西ニ連ヌル線及城内中央ヨリ獅子山ニ通スル道路(含ム)城内三角地帯エオ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スヘシ
四~五 略
六、各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サス
七~十一 略
                      支隊長  佐々木少将
                  (以上『歩兵第三十八聯隊戦闘詳報』)
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 第三節 捕虜等の取扱い混迷とその結果

三 中島師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」について

 中島師団長の12月13日の日記には「捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシ……」とある。この方針が次官通達の「捕虜と呼ぶな」を「捕虜を取るな処分せよ」と誤って解釈したものか、或いは師団長の独自の見解をもって決心したものかは判然としない。
 以下中島師団長の決心にもとづく隷下指揮官の対応をうかがうこととする。
 歩兵三十旅団長(佐々木到一少将)の12月14日の城内掃蕩命令には「各隊は師団ノ指示アル迄捕虜ヲ受付クルヲ許サス」とあり、師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」を裏付けるとも思われれる命令文を下達している。しかし命令文には「処分セヨ」という字句は見当たらない。
 また、歩兵第三十旅団隷下の歩三十八聯隊副官・児玉義雄氏(33期)は12月12日、13日頃の回想記事として次のように記されている。

 「南京1~2キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団長副官から師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』と電話で伝えられ、とんでもないことだと大きなショックをうけた。師団長中島今朝吾中将は豪快な将軍で好ましいお人柄と思っておりますが、この命令だけはなんとしても納得できないと思っております。部隊としては実に驚き困却しましたが、命令止むを得ず各大隊に下達しましたが、各大隊からはその後何ひとつ報告はありませんでした。」

 これに依れば口頭ではあるが、「処置せよ」と指示されているのである。…

 ・・・以下略

資料4---------------------------------------
                     佐々木到一少将私記
                                       歩兵第三十旅団長・陸軍少将(18期)
九、南京入城以後 

◇12月22日
 城内粛清委員長を命ぜられ、直ちに会議を開催す。

◇12月23日
 会議

◇12月24日 
 同右、査問開始

◇12月26日
 宣撫工作委員長を命ぜらる、城内の粛清は土民に混ぜる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するに在ると共に我軍の軍紀風紀を粛清して民心を安んじ速に秩序と安寧を快復するに在つた。予は峻烈なる統制と監察警防とに依つて概ね20日間に所期の目的を達することができたのである。

◇1月5日
 査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約2千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。
 城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於て処分せるもの数千に達す。
 南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約7万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約10万と推算せらる。

資料5-----------------------------------------

        第7章 南京占領以後の治安維持対策と軍紀粛正

第二節 佐々木少将の城内粛正査問工作

二、査問工作について在南京アメリカ大使館の観察

 在南京アメリカ大使館のアリソンAllison,John Moore 書記官は在漢口ジョンソン Johnson, Nelson Trusler 大使に、

「支那政府軍ノ総テノ残兵ヲ掃蕩スル日本軍ノ決心ハ確固不抜ノモノラシク見受ケラレタリ。12月25日カ其ノ頃、南京大学ニ避難セル3万人ノ支那人ノ登記ヲ初ムル準備トシテ数名ノ陸軍将校ガ大学ヲ訪ネタリ。其ノ建物ニ避難セル約2千ノ男子ハ外部ニ集合サセラレタリ。而シテ日本人ヨリ彼等ヘノ話ノ中ニ、前ニ支那軍ニ働キ居リタル者アラバ申出デヨ、其人々ハ保護セラルベシ──此ノ保護セラルルト云フコトハ数回繰返サレラリ──多分日本軍ノ為ニ労役ニ就カシメラルベキガ、若シ其ノ時申出デズ後ニ支那人タリシコト分明スレバ、必ズ銃殺セラルベキ旨伝ヘラレタリ。此ノ保証アリシニヨリ、約200人ノ人々ガ前ニ軍人タリシコトヲ申出デタリ。彼等ハ直ニ連行セラレタリ。後刻、重傷ヲ負ヘル4、5人ノ者帰来シ、右ノ200人ハ隊伍ヲ組ミ、離レタル場所ニ連レ行カレ、或ハ銃剣ニヨリ刺殺セラレ、或ハ銃殺セラレタリ。僅カニ上記4、5人ノ重傷生存者ガ死亡者トシテ見残サレ、辛ウジテ逃レ来レル旨語レリ。」

と、査問の実態について注目に値する批判的なジェームズ・エスピー副領事の報告を発している。(極東裁判書証328号)    


 


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