真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京 下関の大虐殺 松井石根専属副官・角良晴氏の証言

2014年11月28日 | 国際・政治

 下記は、上海派遣軍松井石根司令官の専属副官・角良晴氏が「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」と題して、偕行社に投降した文章である。『南京戦史資料集』(偕行社)の編集委員長は、その投稿文について電話と手紙でいくつか質問をするとともに、直接宮崎県都城の奥高千穂山中に彼を訪ねていろいろ話を聞いたという。その結果として、彼の証言にいくつかの矛盾があることを明らかにし、疑問を投げかけているが、”次の3つは真実と思われる”と書いている。

1、どこの部隊か師団か判らないが、17日か18日ごろ下関の件で電話があったこと(「どこの部隊か師団か判らない」というのは、第六師団とは考えられないということである)。
2、長中佐が、「ヤッチマエ」と言ったこと、
3、松井大将と共に、下関付近で多数の死体を見たこと。

 角証言は南京大虐殺に関わる重大な証言であると思う。下記資料、「下関大虐殺」の”下関”は、南京城に攻め込んだ日本軍に追われ、挹江門を突破してきた敗走兵と避難民の大群衆が、揚子江(長江)を利用して逃げのびようと殺到したところである。「ホウトウ」(浦口)は対岸である。
 ここでは、『南京戦史資料集』(偕行社)から「角証言」のみを抜粋し、編集委員長の疑問に関するやり取りやまとめは省略した。( )内の註は編集委員長の入れたものである。筆者の角氏は自らを「副官」と表現し、「私」という言葉をつかっていない。誤字と考えられるため「ママ」と示された漢字は正しいと思われる漢字に修正した。漢数字の一部を算用数字に変更した。6Dは第十軍第六師団。
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         支那事変当初六ヶ月間の戦闘
                       (角記録一から二七と三四は省略した)
二八 下関大虐殺に関する軍司令部内の出来事
○松井大将の宿舎は南京飯店に在った。
○副官は17日夕刻、第六師団長谷中将を訪問した。宿舎は中正門(?)の内側だったと思う。
  途中の町中には1人の支那人も見なかった。
○18日朝松井大将は「下関に行き度い」と申された。
  情報課に下関附近の敵状を聞いたが「異状なし」との事で副官は直ちに下関附近の偵察に赴いた
(イ)下関両側の城壁は全部綺麗に取り除かれて居たが、下関の門は其の尽残っていた。
  城跡から揚子江に到る間に綺麗な空き地があった。
(ロ)下関より下流約50米附近、揚子江の左岸(註・右岸)の水際から城壁のあった跡の方向に連続死体がつづいているのを見て直に調査に行った。
(ハ)下関から「ホウトウ」(註・浦口)へ通う汽船は下関近くに腹をかかえて沈められ船上には沢山の死体が見えた。
(ニ)死体の出来た総司令部内に於ける原因は次の通りである。
  18日朝だったと思う。
  第六師団より軍の情報課に電話があった。
  「下関に支那人約12~13万が居るがどうするか」
  情報課長、長中佐は極めて簡単に「ヤッチマエ」と命令された。
  副官は事の重大さを思い、又情報課長の伝えた軍の命令は軍司令官の意図と異なるものと確信し、此の事を軍司令官に報告した。
  軍司令官は直ちに長中佐を呼んで「下関支那人12~13万の解放」を命ぜられた。
  長中佐は「支那人の中には軍人が交って居ります」という。
  軍司令官は「軍人が交じっていても、却って軍紀を正しくするのに必要だ」と強く解放を命令された。
  長中佐は「わかりました」と返事があった。副官は更に長中佐の行動に注意する(長中佐は陸大出の特別な支那通であり、過去において陸軍大臣の命令に背き御叱りを受けた事が度々あった)。

二九 6D再度の電話
○同日第1回の電話から約1時間経って再び第六師団より電話があった。
「下関の支那人12~13万をどうするか」の問題である。
 長中佐は前回同様「ヤッチマエ」であった。
 副官は、この事を軍司令官に報告する事は出来なかった。
○副官は思う。第六師団は最初、下級参謀が下関支那人処理の件を軍に意見を聞いた。「ヤッチマエ」であった。之を参謀長に報告した。参謀長は軍の命令を不審に思い、再び本件の処置について軍に意見を求めたものと思う。此の件は第六師団参謀長・下野一霍大佐(砲兵出身)の「下関支那人大虐殺事件の真相」に「大虐殺は師団長の意図ではなく軍の命令である、それに此の事で師団長を死刑にするとは間違って居る」とある。この実想を綴られたものと思う。

三〇 死体の様相
○下関下流50米附近から、揚子江下流の方向へ約2粁附近迄死体がぎっしり絨毯の様につまっていた。
 横の方には揚子江の水際から右岸の岸壁道を越え、空地を経て城壁跡へ約300米位死体は続く。
○大西の記事(『偕行』58年2月号)は真相である。但し挹江門─下関道、其の西側揚子江岸には多数の死体が其のまま残って居た。
又死体を「三千乃至五千位というところだろう」とあるが之は下関附近の大虐殺とは見当違いではなかろうか
 12~13万のぎっちりつまった一連の死体を見れば一目真相がわかる筈である。

三一 軍司令官の下関状況視察
  副官は、軍司令官に情報課の意見は「下関附近に行くのは暫く待つ様にとのことであります」と嘘をいった。

三二 下関付近死体除去について
 副官は下関附近12~13万の死体の状況並に軍司令官視察希望の件を参謀長に報告し、死体の速やかな除去をお願いした。
○翌18日朝副官は再び下関の死体の状況を視察したが変化はなかった。
 其の旨参謀長に報告し軍司令官に対し「下関行」を延期せられる事を御願いした。
○19日朝早々、副官は3度下関附近死体調査。約12~13万の死体には油を注ぎ火をつけたらしく焼雀のように手足も曲がり悲惨の様相を呈していた。
 前日同様厳しく参謀長に報告し、かつ軍司令官の下関行を延期してもらった。
 3日間の延期である。是以上の延期は出来ないと思った。参謀長の無能を思った。

三三 20日朝軍司令官の下関附近まで独断視察
 20日朝軍司令官は「私は下関に行く。副官は同行しないでよい」と命令があった。
 副官は車の準備をした。
 当日、副官は運転手の助手になり助手席に乗った、そして下関に行き右折して河岸道を累々と横たわる死体の上を静かに約2キロ走り続けた。
 感無量であった。
 軍司令官は涙をほろほろと流して居られた。2キロ位走って反転して下関を通り宿舎に帰った。
 このような残虐な行為を行った軍隊は何れか?「下克上」の軍命令により6Dの一部軍隊が行ったものと思料せらる。

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OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。一部漢数字を算用数字に変更しています。(HAYASHI SYUNREI) 

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