真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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中支那方面軍 進出制令線突破 南京攻略 松井石根 意見具申

2014年11月17日 | 国際・政治

 OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。一部漢数字を算用数字に変更しています。(HAYASHI SYUNREI)                 
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 盧溝橋事件1ヶ月余り後の1937年8月10日、日本軍は、上海の居留民保護を名目にして「上海派遣軍ヲ上海ニ派遣ス」と決定した(下記資料1「臨参命第73号」)。司令官は松井石根大将である。その後、天谷支隊や重藤支隊(台湾より)を上海派遣軍司令官の隷下に入れ、第三艦隊司令官麾下の陸戦隊も上海派遣軍司令官の指揮のもとに置いた。そして、同年10月20日には「上海方面ニ第十軍竝所要ノ兵力ヲ増派ス」を決定し、國崎支隊を第十軍の隷下に入れている。

 そうやって上海附近に集結した日本軍を、同年11月7日、軍中央は「左ノ部隊ヲ中支那方面軍ニ編合シ中支那方面軍司令官松井石根大将ヲシテ指揮セシム」とした(下記資料2「臨参命第138号」)。この時の任務も「敵ノ戦争意志ヲ挫折セシメ戦局終結ノ動機ヲ獲得スル目的ヲ以テ上海附近ノ敵ヲ掃滅スルニ在リ」であった。南京攻略は考慮されていなかったのである。そして、「中支那方面軍ノ作戦地域ハ概ネ蘇州嘉興ヲ連ヌル線以東トス」と指示していた(下記資料3「臨命第600号」)。いわゆる「進出制令線」である。

 大本営設置後初の御前会議においても、参謀第一部長が

中支那方面軍ハ上海周辺ニ於ケル戦勝ノ成果ヲ利用致シマシテ機ヲ失セス果敢ナル追撃ヲ実施シツツアリマスカ元来此軍ハ上海附近ノ敵ヲ掃滅スルヲ任務トシ且同地ヲ南京方面ヨリ孤立セシムルコトヲ主眼トシテ編組セラレテ居リマスル関係上 其推進ニハ相当ノ制限カ御座イマスノミナラス 目下其前線部隊ハ其輜重ハ固ヨリ砲兵ノ如キ戦列部隊スラモ尚遠ク後方ニ在ル者尠ク御座イマセン…”

 と説明していたのである(『南京戦史』偕行社)。

 しかしながら、中支那方面軍は11月19日、この進出制令線を次々に突破して南京に向い進撃を開始したのである。だから、松井司令官に「丁集団ヨリ湖州ヲ経テ南京ニ向ヒ全力ヲ以テスル追撃ヲ部署セル旨報告シ来レル処右ハ臨命600号(作戦地区ノ件)指示ノ範囲ヲ逸脱スルモノト認メラルルニ付為念」という電報が届く(資料4)。そこで、中支那方面軍司令官松井石根大将は自らの考えをまとめ11月22日「参謀総長ニ具申」した(資料5「中支那方面今後ノ作戦ニ関スル意見具申」)。「…此ノ際蘇州、嘉興ノ線ニ軍ヲ留ムル時ハ戦機ヲ逸スルノミナラス敵ヲシテ其ノ志気ヲ回復セシメ戦力ノ再整備ヲ促ス結果トナリ戦争意志徹底的ニ挫折セシムルコト困難トナル懼アリ」というわけである。

 意見具申の内容と、この経過を振り返ると、上海派遣軍司令官の大命を受けて上海に出発する松井石根大将が、見送りに来た杉山元陸軍大臣に「どうしても南京まで進撃せねばならぬ」と力説したという話(『南京難民区の百日─虐殺を見た外国人』笠原十九司〔岩波書店〕p27)が思い出される。第三艦隊司令長官・長谷川清中将もそうであったように、松井石根も当初から南京攻略を考えていたので、進出制令線突破を認可したに違いないと思うのである。

 軍中央では、中支那方面軍の制令線突破に関して、「直に止めなければ大変だ」とか、「状況を見に行っている河辺課長の帰りを待って判断すればよい」など、様々なやり取りがあったようであるが、結局11月24日に中支那方面軍の制令線突破を追認し、「臨命第600号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ之ヲ廃ス」の指示が打電され(資料6「大陸電第18号」)、さらに12月1日には「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」という命令が下されたのである(下記資料7「大陸命第8号」)。

 領土拡張や権益確保の欲を持っていたが故に、中国軍の抵抗を撃破しつつ南京に迫る中支那方面軍各師団等の報告と「遅クモ二ヶ月以内ニ目的ヲ達成シ得ル見込ナリ」などという確信に満ちた司令官松井石根大将の意見具申に屈し、軍中央は不拡大方針を変更してしまったのではないかと思う。

 上村利道(ウエムラトシミチ・上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐)の11月半ばから12月初旬の日記に「各兵団追撃急ナリ」とか、「皇軍ノ追撃正ニ破竹ノ勢ナリ」とか、「戦況ハ進ム盲目滅法ナリ9Dハ既ニ本夕淳化鎮(南京東南4里)ニ達ス。丸テ各兵団「マラソン」競争ニテ後方ノ追及モ何モアツタモノニアラス、方面軍ニテハ南京入城ニ関スル統制命令ヲ下セリ。宮殿下ノ御着任後南京入城トナレハ実ニ結構ナルカ、此調子ニテハ迚モ御間ニ合ハサルヘシ」などと記されている(『南京戦史資料集Ⅱ』偕行社)。もともと部隊編制がきちんとできていなかった上に、各師団などのマラソン競争のような追撃に、兵站や輜重が追随できなかったのである。それが掠奪の一因となったことを見逃してはならないと思う。

 また、不拡大方針の変更は、さらに「蒋政権の抗戦を制せんと欲すれば第三国の抗日政策を根本的に打破するを要し…」と、米英などをも相手とする戦争に進んでいかざるを得ない側面を孕んでいた。中国に対する日本の手前勝手な要求を、外交を無視して、軍事力によって押し通そうとしたから、結局、日本国民を存亡の危機に陥れることになったのであろう。「村山談話」にいうところの「国策の誤り」のひとつであると思う。
 下記、資料1、2、3、4は『現代史資料9 ─ 日中戦争2』(みすず書房)から、資料5、6、7は『南京戦史資料集Ⅰ』(偕行社)からの抜粋である。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

               六六 命令・指示

                            二
臨参命第73号

         命 令

一、上海派遣軍(編組別紙ノ如シ)ヲ上海ニ派遣ス
二、上海派遣軍司令官ハ海軍ト協力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ
三、動員管理官ハ夫々其動員部隊ヲ内地乗船港ニ到ラシムヘシ
四、支那駐屯軍司令官ハ臨時航空兵団ヨリ独立飛行第六中隊ヲ上海附近ニ派遣シテ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ラシムヘシ
五、上海派遣軍ノ編組ニ入ル部隊ハ内地港湾出発ノ時其動員管理官ノ指揮ヲ脱シ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
 但独立飛行第六中隊ハ上海附近到着ノ時ヲ以テ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
六、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
  昭和12年8月10日
 奉勅伝宣
                        参謀長  載 仁 親 王
 参謀総長           載 仁 親 王 殿下
 上海派遣軍司令官       松 井 石 根 殿
 支那駐屯軍司令官       香 月  清 司 殿
 その他13師団長宛(師団長命略)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               十五  
臨参命第138号
         命 令

一、左ノ部隊ヲ中支那方面軍ニ編合シ中支那方面軍司令官松井石根大将ヲシテ指揮セシム
 中支那方面軍司令部
 上 海 派 遣 軍
 第   十   軍
二、中支那方面軍司令官ノ任務ハ海軍ト協力シテ敵ノ戦争意志ヲ挫折セシメ戦局終結ノ動機ヲ獲得スル目的ヲ以テ上海附近ノ敵ヲ掃滅スル ニ在リ
三、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
  昭和12年11月7日
 奉勅伝宣
                             参謀総長 載 仁 親 王
中支那方面軍司令官   松 井 石 根 殿
上海 派遣 軍司令官    松 井 石 根 殿
第 十 軍  司 令 官     柳 川 平 助 殿

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

臨命第600号
         指 示
臨参命第138号ニ基キ左ノ如ク指示ス
中支那方面軍ノ作戦地域ハ概ネ蘇州嘉興ヲ連ヌル線以東トス
  昭和12年11月7日
                             参謀総長 載 仁 親 王
中支那方面軍司令官   松 井 石 根 殿


資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   ○電 報           11月20日    午後6時45分発 同11時15分着
                       参謀長発
  松井集団参謀長宛
 丁集団ヨリ湖州ヲ経テ南京ニ向ヒ全力ヲ以テスル追撃ヲ部署セル旨報告シ来レル処右ハ臨命600号(作戦地区ノ件)指示ノ範囲ヲ逸脱スルモノト認メラルルニ付為念
                  (『第10軍作戦指導ニ関スル参考資料』其二)
資料5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○中支参電第167号

    中支那方面今後ノ作戦ニ関スル意見具申

   判決 

 中支那方面軍ハ事変解決ヲ速カナラシムル為現在ノ敵ノ頽勢ニ乗シ南京ヲ攻略スルヲ要ス
 理由
一、南京政府ハ湖東会戦ノ大敗ニヨリ既ニ遷都ノ挙ニ出テ僅ニ統帥機関ノミ残置シアル状況ニシテ其ノ第一線部隊ノ戦力ハ著シク喪失シ今ヤ敵ノ抵抗ハ各陣地共極メテ微弱ニシテ飽迄南京ヲ確保セントスル意図ヲ認メ難シ
此ノ際蘇州、嘉興ノ線ニ軍ヲ留ムル時ハ戦機ヲ逸スルノミナラス敵ヲシテ其ノ志気ヲ回復セシメ戦力ノ再整備ヲ促ス結果トナリ戦争意志徹底的ニ挫折セシムルコト困難トナル懼アリ
従ツテ事変解決ハ益々延引スルニ至ルヘク為ニ内地ニ於テ国民モ亦軍ノ作戦意図ヲ諒得セス国論統一ヲ害スル惧アリ、之ガ為ニハ現下ノ情勢ヲ利用シテ南京攻略シ中支方面ニ明瞭ナル作戦ノ終末ヲ結ブヲ可トス

二、事変ヲ速カニ解決スル為ニハ西南方面若クハ山東方面ノ新作戦固ヨリ考案セラルゝ所ニシテ之等作戦ノ支那政府ニ与フル影響ハ何レモ相当価値アルモ首都南京ヲ攻略シ其ノ心臓ニ迫ルモノニ比スレバ遙カニ第二義的ナリ
我カ軍ハ此際中支方面ニ於ケル現在ノ戦況進展ニ乗シ一意湖南作戦ヲ継続シ速カニ南京ヲ攻略スルト共ニ一部ヲ以テ揚子江左岸ニ於テ津浦鉄道ヲ遮断スルヲ得ハ山東、湖北地方ハ自然的解決ヲ望ミ得ヘシ

三、南京攻略ノ為ニハ現ニ方面軍ノ有スル兵力(若干部隊ヲ抽出セラルゝモ可ナリ)ヲ以テ十分ニシテ且鉄道、水路ヲ利用セハ後方ノ状態モ何等懸念スル所ナシ 又敵ノ抵抗ハ無錫及湖州ヲ失ヒタル後ニ於テハ地形ノ関係ト平時施設ノ状態ヨリ観察シテ大ナル犠牲ヲ払フコトナク遅クモ二ヶ月以内ニ目的ヲ達成シ得ル見込ナリ
第十軍ハ新鋭ノ気溢レアルヲ以テ後方成立次第ニ躍進ヲ続ケ得ヘク 又上海派遣軍ハ連戦ノ疲労稍大ナルモノアリト雖モ旬日ノ休養ヲ与フルコトニヨリ戦力ヲ回復シ軍隊ノ整頓ヲ完了シ得ヘク南京ニ向フ追撃ハ可能ナリト判断シアリ但此際専任ノ派遣軍司令官ヲ任命セラルゝコト必至ナリト思惟ス

資料6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○大陸電第18号          11月24日13時56分
 大陸指第5号
          指 示  
臨参命第138号ニ基キ左ノ如ク指示ス
臨命第600号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ之ヲ廃ス
                  (『第10軍作戦指導ニ関スル参考資料』其二)  (『下村定中将回想録』) 

資料7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 大陸命第8号
         命 令
一、中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ
二、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
  昭和12年12月1日     
 奉勅伝宣               
                             参謀総長 載 仁 親 王

中支那方面軍司令官   松 井 石 根 殿

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