日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
⑨我々は一和会から見捨てられた
竹中四代目組長暗殺の真相⑨
一和会から我々は見捨てられた
そして23日、指名手配中の後藤から津署に解散届が送られてきた。
「今回の事件で一和会の一員として行動しましたが、山口組との対立が深まり自分たちが狙われるようになりました。組員も拉致されました。
一和会に対して応援、指導の要請をしましたが、何の返事もありません。追い詰められている我々は見捨てられてしまいました。
私も指名手配されている身で、このままでは山口組に潰されてしまいます。私自身堅気になり、組を解散します。人質は早く返してもらうようにお願いします。私自身も近く自首します」
また山口組総本部に対しても
『思慮浅い我々の行動によって、山口組さんに大きな迷惑を掛けました。世間にも不安を与えました。
このたびの重大事を深く反省し、後藤組組員一同は堅気になり、正業に就くことを誓います』という書き出しで始まる、同様の内容の詫び状が郵送された。この詫び状はすぐに外部に漏れ、翌24日にはマスコミにも報じられた。そして翌日後藤組若頭は解放されている。
だが『近く自首する』と記した後藤はその後も姿を現さず、今もって消息不明である。
一方の石川は、同じく指名手配された3人の若衆とともに事件から1年半後昭和61年7月11日になって逮捕された。
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長野ら山広組員の供述から、愛人が住み竹中が足しげく通うGSハイム第2江坂を突き止め、大胆にも同じマンションにアジトを構え長野らがこのアジトに潜伏して襲撃のチャンスを窺っていたことを知った捜査本部は石川を竹中暗殺計画の立案、実行のキーマンと断定していた。
石川は大学中退後に北山組に入り、抗争で相手組幹部を刺殺して傷害致死で服役。その後アメリカにわたり、帰国後30歳で北山組若頭となった。
空手の有段者であり、武闘派である一方、英会話もこなすなど頭も切れ、三代目山口組当時から『北山組に石川あり』と、若手有望株として注目されていた。
親分である北山悟が一和会組織委員長の要職に就いたが、石川は一和会直参となり、常任幹事に就任していた。
山口組に走ろうとした北山組傘下組織を石川が率いる悟道連合会組員が襲撃するという事件もあった。 続く
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撰名書は、未だとのことで、届くのを楽しみに待っているようです。
お忙しいことと存じますが、よろしくお願いします。
当方は、お陰様で、つつがなく過ごしております。
連日、三十数度の暑さで、梅雨明けしたような日々が続いております。
暑さきびしき折、奥様共々、ご自愛ください。
祐大