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最後の総会屋・小川薫

最後の総会屋・小川 薫

68回

ただバブル絶頂期のあの頃は、すでに商法が株主総会から総会屋を締め出す方向で改正されていた(1982年)といっても、総会屋の連中もまだまだ元気だったんだ。小川 薫とか藤野康一郎とかな。

 小川 薫は1964=昭和39年、総会屋グループ「小川企業広告研究所」を設立(後に「小川企業」に改組)。広島県出身で、株主総会では広島弁でまくし立てたことから、企業から「広島グループ」と恐れられた。

 だが、小川率いる「広島グループ」は一時、数千人を超える規模となったため、総会屋に対する企業の反発や世論の批判を招き、1982年の商法改正で株主総会から総会屋が締め出されるきっかけともなった。

2008年6月、地元広島の不動産業者を脅喝したとして逮捕・起訴され、08年10月、東京地裁で懲役10か月の実刑判決を受け、09年4月、東京拘置所で肺炎のため71歳で死亡した。

 小川をモデルにした小説や映画もあり「最後の総会屋」と呼ばれた。

 藤野康一郎も「藤野事務所」を主宰、「味の素」での与党総会屋として活動するなど、大物総会屋として知られたが2009=平成11年に「廃業通知」を出した。

 実は東京に進出する前から、「総会屋」という商売は非常に“魅力的”だなと思ってたんだ。まだ商法が改正される前、それこそ小川薫とかが全盛期のころだ。

これは面白い商売だな、と。

 けど、極道が彼らと同じことをやるわけにもいかんでな。それで東京に進出してからは、自然と彼らと接点が出来て行ったんだ。総会屋も、右翼も、バブル全盛期で勢いがあったからな。

 それで薫や藤野とも知り合って、彼らが同業者やヤクザとトラブったら相談に乗ったり、力を貸してやったりしたんだ。

 それにしても薫は面白い男だったよ。死んじゃったけど。総会シーズンの前になると、若い衆に大きな紙袋を持たせて、各企業を回ってさ。薫が何社か回って「そろそろ株主総会が近づいてきたなぁ・・・・」なんて言うとデカイ紙袋が一杯になったんだよ、銭で。

 愉快な男だった。藤野はまだ元気で、今でも仲良くしてて、一緒に飲むんだ。バブルのころは銀座なんかで飲んでたら、総会屋とか、事件師とか、ブローカーの連中とよく遭遇したな。そのうちに顔見知りになって、気の合った連中同士で自然にグループが出来て行った。

 の頃は事件師でもブローカーでもトッポイ野郎が多くておもしろかったな。昔はそういった「企業舎弟」の連中野中にも、100万円の札束を持って飲んでたのがいたんだ。

 仕事のレベルも高くて、一仕事やりゃあ、30億だ、50億だと儲けていた奴もいたよ。 続く

 

 

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