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納谷家三代・幸喜・忠茂・幸之介

納谷家三代

幸喜・忠茂・幸之介

北海道岩内出身の納谷キヨ(後家運・病弱運・孤独運・苦労困難運)さんは洋裁師だったが知人の誘いで樺太にわたり、南樺太でロシア人と出会って4人の子をもうけた。

 1940年、皇紀2600年の祝賀式典が行われた年の1月19日、4番目として男児が誕生。おめでたい皇紀2600年にちなんでこの男児に母親のキヨさんは『皇紀幸喜(こうき)』と名付けた。

 1945年ソ連軍の南樺太侵攻により、一家は小笠原丸という最後の引き楊船の最後尾で乗り込み、1500名の乗船客と日本へ向け出航、納谷一家は小樽を目指した。出航から三日目、船酔いと疲労から体調を崩した母親が最初の寄港地の稚内で下船した。この時700名が降りたという。

 小笠原丸は小樽へ向けて航行中の翌日、留萌の沖で国籍不明の潜水艦に魚雷攻撃を受け撃沈されてしまった。当時ソ連の潜水艦という見方が有力であったという。

こうして間一髪、辛くも死を免れた納谷一家は、鉄路で岩内に帰った。

 母親が学校の教師と再婚したことから住吉キヨ(配偶者との生死別運・障害多発運・経済的困窮運)と姓が変わり、幸喜少年も住吉幸喜(家族生死別運。苦労困難運)となった。

1年ごとに夫の僻地転任で引っ越しが続いたという。

幸喜少年10歳の時、母が離婚したため、またも納谷幸喜(病弱運・志節挫折運・苦労孤独運・絶対的短命運・第一型)に戻った。

貧しい家計を少しでも助けようと幸喜少年は納豆売りを始めている。続く

 

 

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