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八王子戦争と後藤組の東京進出

八王子戦争と後藤組の東京進出

51回

直参立会いの下で、櫻井さんと話をして、話の最後に俺は櫻井さんにこう言ったんだよ。「会長のお話は分かりました。ただ、今後はここにおられる直参の方々抜きで、私が直接お話しを伺いに行きます」ってね

 けど、これで直参の面子が潰れたわけじゃないよ。俺が櫻井との話し合いの席についたことで、二人のメンツは立ったんだから。

 それから櫻井さんとの付き合いが始まったんだ。

櫻井さんも地元に後藤がいれば、このゴルフ場も安心だと思ったんだろう。

 俺も「廣済堂のゴルフ場には出入りしませんし、他のヤクザは誰も入れませんよ」って言ったから。

 俺も人がいいから櫻井さんから「一生、死ぬまで、長いお友達でいましょうね♪」なんて言われて、結果的にはまんまと乗せられたわけだ。

 けど、その後、櫻井さんとは実際に、櫻井さんが亡くなるまで付き合いが続いた。櫻井さんには色んな政治家や財界人を紹介してもらったし、本当に勉強になったよ。

 地産の竹井さんと知り合ったのもゴルフ場がきっかけだ。地産のゴルフ場〈富士地産カントリー倶楽部の横の土地に、ウチの若い衆が豚小屋を建てたことがあったんだ。

 それで竹井さんとは3か月近くやり合ったんだけど、何かお互いに波長が合ってさ。終(しま)いには仲良くなっていた。

 俺が46、7歳のころだったかな。この竹井さんと知り合った頃が、ちょうどバブルの入口みたいなもんだった。バブルの時は、ゴルフ場が次から次へ出来たからな。

 そのゴルフ場のちょうど入口に当たる土地等を持ってたら、何倍にも跳ね上がった時代だ。そしてこのころから、廣済堂や地産、武富士とか東京の企業に入り込んで行ったんだ。

 それまでにも東京に事務所は置いてたんだが、本格的に進出したのは「八王子戦争」の時だ。

 ◎1990=平成2年2月、東京都八王子市で、五代目山口組・宅見組系組員が、二率会=にびきかい(八王子市に本拠を置いた博徒系暴力団で、当時の構成員は約500人。2001年に解散)系組員に殺害されたことをきっかけに、両組織の間で「八王子戦争」と呼ばれる事件が勃発。10日間にわたって抗争が繰り広げられた。◎

 あれは宅見さんのところの喧嘩だったけど、後藤組も応援に入ったんだ。あの戦争であそこにいた的屋の

「正東会」というのを俺の若い衆にして、200~300人兵隊増やして、二率と張り合わせたんだよ。

 この「正東会」を置いたことで、本格的な東京進出が始まったわけだ。東京に進出してからは、関東の他の組織の親分連中とも親しくなったし、経済人との付き合いも自然に増えた。

 それで、いつの頃からか、俺は世間で「経済ヤクザ」なんて呼ばれるようになったんだ。ただあの戦争で俺は、山口組の若頭補佐でも何でもなかったけど、宅見さんを応援したから、宅見さんが恩に感じてくれてね。

 俺を「五代目山口組の組長秘書」に推薦してくれた。

 けど、宅見さんから推薦されて1991=平成3年12月に組長秘書になったのはいいけど「秘書」という仕事がどうしても合わなくてな。1年ほど経ったら

「頭が痛い」だの「腹が痛い」だのとか言い始めて

・・・・ヤクザ独特の一番悪いタイプだな。

 それで結局親分と宅見さんに断りをいれて辞めちゃったんだよ。せっかく、宅見さんが推薦してくれたのに、1年やそこらで辞めちゃうんだものな。

 けど、こればっかりは性分だから、仕方ないわ。そういった生き方しかできんかったもんでな、

俺は。  続く

 

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