日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
第6章 生涯の友・野村秋介・本当に素敵な出会い
第6章・生涯の友、野村秋介
52回
本当に素敵な出会い。
俺が四代目山口組の直参になる直前、初めて生涯の友と呼べる男に巡り合った。それが、野村秋介さんだ。
人の出会いってのはほんと、不思議なもんだな。
一瞬で、「ああ、この人とは一生、いい付き合いができそうだな」と分かるんだから。
野村さんもそうだし、俺に得度を授けてくれた住職(第12章で詳述)もそうだ。もちろん俺はヤクザの世界にいたから、親分もいれば子分もいた。それに兄貴分も。
けれどそれは「盃」という独特の契りで結ばれている関係で会って、やはり「友」とは違う。だから生涯の友と呼べるのはこの二人だけだ。
ただ人間一生のうちに、本当に腹を割って話をしたり、胸の内を包み隠さず見せたりできる相手は、2,3人もいれば十分だ。後は多かれ少なかれ、どこかに欲があったり、この人と付き合っていれば、何か得だろうと云う打算の関係が大半なもんでな。
「お前のためなら俺の命、少々削ってもいいよ」って、心の底から笑って云える人間なんか、なかなかおりゃあせんもんで。
◎野村秋介は1935=昭和10年、東京生まれの横浜育ち。神奈川工業高校中退後、愚連隊に入ったが。網走刑務所に服役中、「5・15事件」(1932年5月15日に発生した大日本帝国海軍の青年将校による犬養毅首相暗殺事件)に連座した三上 卓(元海軍中尉)の門下生と出会ったことを機に民族主義者として覚醒した。
出所後は三上の弟子となり、1961=昭和36年に
『憂国道志会』(のちの「大悲会」)を結成し、会長に就任した。1963=昭和38年7月、河野一郎元自民党幹事長(当時は建設大臣。河野洋平・前衆議院議長の実父)を政治腐敗の元凶として、その私邸に侵入。
家人を家の外に出したうえで、河野邸に火を放ち、懲役12年の実刑判決を受け、千葉刑務所に服役した。
出所から2年後の1977=昭和52年3月には。「ヤルタ・ポツダム体制(第2次世界対戦後のヤルタ協定やポツダム宣言によって形成された、アメリカなどを中心とする戦勝国主導の政治体制)」の打倒を訴え日本経済団体連合会(日本経団連)本部を襲撃。
再び懲役6年の実刑判決を受け、府中刑務所に服役し、計18年の獄中生活を送った。出所後は民族主義派のイデオローグとして活躍したが、1993=平成5年10月、朝日新聞東京本社で自決した。◎
野村さんが府中刑務所から帰ってきて1年後ぐらいかなあ。それも不思議な縁でね、ウチの長男(長兄後藤守孝)と野村さんが刑務所で一緒だったらしいわ。
ウチのあんちゃんが昭和9年生まれで野村さんが昭和10年と似たような歳だったからか、ムショの中でよく碁を打ったそうだ。
それであんちゃんから「ウチの弟もヤクザしてて、山口組にいて、いまこうしている」という話を聞いて俺のことが気になってたらしい。
野村さんという男も不思議なもんで、「出所したら(後藤忠政に)ぜひ会いたい」なんて話してたらしいわ。 続く
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