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五十二・深作欣二 日本を代表する映画監督

日本を代表する映画監督

五十二・深作欣二

(1930・7・3~2003・1・12)

末期がんと知りながら最期のメガホンを取る!!

 2003年1月16日、午後0時30分、東京築地本願寺第二伝道会館は異様な雰囲気に包まれていた。前立腺がんのため死亡した映画監督、深作欣二の葬儀・告別式が執り行われたのだ。友人を代表して弔辞を述べたのは『仁義なき戦い』の盟友菅原文太だった。

深 作 欣 二

12 7  8 2

氵は水を意味して4、故に深は12

天格・深作19(吉凶なし)

人格・作欣15

地格・欣二10

外格・深二14

三才の配置(第一型・絶対的短命運)

天9―人5-地10;脳溢血・心臓麻痺・急難(病難・厄難・遭難)・

災害・自殺、その他すべて急変の死を招く。

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弔辞・・・菅原文太

『サクさん、ご苦労さんでした。本当に長い間、ご苦労様でした。40年、いや、50年近くあなたは脇目もふらず、歩き続けた。あなたを突き上げてきたものは何だったんでしょう。いつも言っていた戦後の日本ですか・・・』2000年12月に封切られた深作欣二60作目の監督作品『バトル・ロワイアル』は興業収入31億円の大ヒットとなった。

 深作は次に何を撮るのか大いに注目される中、深作が選んだのは、『バトル・ロワイアルⅡ』だった。

既に前立腺がんが骨に転移して、余命いくばくもなかった深作は、同作が遺作となることを知っていた。

制作発表の席上、深作は『最後の映画として満身創痍で臨む。今回は戦争がテーマ。戦争をアクションとして撮ったことがないので最後に取りたい』

と映画人としての覚悟を語った。また会場で配った報道陣用の資料には、『深作欣二最後の戦い』と太字で書かれ、深作のメッセージがしたためられていた。

 『たとえこの戦いで生涯を終えようとも、私には一片の悔いもない』。

***

当時の深作は日に2度抗がん剤を飲み、2カ月に1度の放射線治療を受けていた。同時に腰や背中の痛みが激しいため、モルヒネを常用、その副作用の眠気を抑えるための抗鬱剤も服用するという壮絶なものだった。がん細胞が骨に転移していたため、少しの負荷で骨折するリスクもあった。

 深作はそれでもメガホンをとり続けたが、撮影半ばに死去。息子の深作健太が監督を引き継ぎ、遺作が完成した。

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