今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

魚の頭を左に置く理由

2015年09月26日 | 作法

ある女性国会議員が焼サンマの画像をアップしたら、頭が右になっていたので、ネットで攻撃にさらされ、その写真を取り下げたらしい。

焼魚は頭を左に置くということが、常識化されており、それを知らない事は常識がないとされていることがわかる。

確かに、この盛り付け上の作法は、武家礼法が完成した室町時代には存在していた。
たとえば当時の伊勢流の礼書に「魚の頭の方人の左へ成べし。尾のかたは右になると心得べし。」(伊勢六郎左衛門尉貞順記)とある。

作法とは、さいころを振って決まったのではなく、そうなった理由が必ずある。
私の作法学では、その理由の部分を機能素というのだが、 大抵の作法素(1つの作法を示すテキスト単位)には、本来あるべき機能素が省略されている。
なので、作法を表面的に知るものは、機能素を知らずに、作法(マナー)を法(ルール)として無批判に受けとめる。

作法家たる者は、その言及されない機能素を理解しなくてはならない。
それを知るには、作法全体の体系(作法学ではそれを作法体という)から演繹する(だから個々の作法素では省略できる)。 

では魚の頭を左に置く理由(機能)は何か。

まず考えられるのは陰陽の対応である。
すなわち頭(上部)=陽=左、尾(下部)=陰=右という対応図式による
(幕末まで通用していた前科学的自然思想である陰陽思想は、この世のあらゆる二項対立を陰陽に還元する。)

多くの人は、「そんなのどっちでもいいじゃん」と思うだろう。 
言い換えれば、動作合理的に左側が頭である方がいい客観的な理由があれば、陰陽の基準が出てくることはないのだ。
逆に、ランダムという無秩序を嫌う作法の世界では、動作合理性的には正解がない場合(どっちでもいいもの)における最終決定基準として、何に対しても適用できる陰陽の基準が使われるのだ。
頭を左にして困る正当な理由がないなら、頭は陽なのだから左に合わせたら、となる。
実は、儀式の所作は、たいていは(儀式だから)合理的理由がない。
なので儀式ほど陰陽の基準が前面に出ている。

これを勘違いすると、日本の礼法は陰陽思想に支配されていると結論づけられてしまう(武家礼法の重要な所作は考え抜かれた動作合理性に裏打ちされていることを見抜けない)。

ただし、この魚の頭問題は100%陰陽だけに基づいているわけでもないかもしれない。 
何しろ尾頭付きの魚は、右手の箸だけではきれいに食べにくい。
そこで作法では、左手で魚の頭を押えて、右の箸で肉をとりやすくすることが許容されている。
魚の頭が右にあったらこれができない。
すなわち左頭は動作合理的にもかなっているのだ。
その証拠に、菜に関しては、左右の向きを指定する作法が見当たらない。
ただ、陰陽の基準を優先したのは、食べる時以外でも頭は左にするから。 

逆に、動作合理性を無視して、100%陰陽の基準にすると、実は女性議員の写真は適礼になりうる。

なぜなら、左を上とするのは、男=陽の基準であって、女=陰が主体なら、頭を陰=右にすることも理屈上可能だからだ。
実際、風呂に入るとき、男ならば左足から、女ならば右足から入れという作法があった(中島摂津守宗次記)。
かように、どっちでもいい場合には陰陽の基準が適用された。

陰陽の基準など、陰陽思想を信じていない現代人にとっては、無視していいものなのだ。
 たぶん、私(♂)が風呂に右足から入ったことを公表しても、作法知らずと突込む人はいないと思う。