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敗軍の将シリーズ:宇喜多秀家

2015-01-06 | Weblog
敗軍の将のその後を調べると結構おもしろい。戦国時代では斬首獄門があたりまえかと思うが、意外にも多くの武将が赦免されて新たな人生を歩んでいたりする。

関ヶ原で石田光成以上の大将格であった宇喜多秀家。文武両方に優れた上に長身で公家顔の美丈夫だったそうだ。宇喜多家は岡山52万石のを治め、その居城は岡山城であるが、復興された秀家時代の漆黒の天守を見ると、秀家が高い美意識を持った教養ある武将だったことがわかる。秀家は秀吉から豊臣の性を与えられ将来の関白と可愛がられていた。そのため関ヶ原では当然西軍に加担した。敗戦後、宇喜多秀家は島津の鹿児島へと逃れる。しかし発覚を恐れた島津方に通報され捕縛されるも、妻・豪姫の実家である加賀前田家の取りなしもあって打ち首だけは免れ、息子ともども八丈島に配流となる(32歳)。伊豆諸島への配流というと保元の乱の源為朝を思い出す。源氏史上最大の強者である為朝は配流先の伊豆大島でも暴れ回り、結局は追討軍によって討たれてしまう。大島合戦の際には押し寄せる船を自慢の強弓で撃沈したそうだ。為朝とは違って貴公子である宇喜多秀家は配流先でも清貧に生活したそうで、50年もの島生活の後に八丈島で寿命をまっとうした。息子たちも八丈島に根付いて子孫を残し、今でも八丈島において血筋を伝えている。豪姫は八丈島にはついていかなかったが、前田家を通じて八丈島に兵糧と金子を送り続けた。これは前田家と宇喜多家の絆として明治維新まで続けられたそうだ。250年以上もである。徳川幕府の発展の裏で、このようなドラマが存在していたとは驚きであった。