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天王寺公園

2014-07-27 | 街角の話し
天王寺の話題
まずは天王寺公園


大阪市立美術館へのチケットがあると無料です




天王寺公園からのハルカスです




旧黒田藩蔵屋敷長屋門  大阪市立美術館へ行く時の通り道にある

見慣れてしまって違和感がありませんが・・・

黒田藩という名前は俗称です。福岡藩です。

福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの戦功により筑前を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津城主の黒田長政(軍師黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。九州征伐の功績で豊前中津の大名となり同じく関ヶ原の戦功により筑前一国52万3千石を与えられたことにより当藩が成立した。

軍師官兵衛の大河ドラマを見るときには思い出しましょう

入府当初の居城は名島城であったが手狭であり交通にも不便であったため、太守に相応しい新たな城郭を築いた。慶長6年(1601年)当時、堺と並ぶ商人の街博多の隣に接する那珂川の西側、福崎の地を備前の黒田氏故地、福岡と名を改め、築城に着工し、慶長11年(1606年)に約6年をかけて広大な城郭は完成した。福岡城、別名・舞鶴城である。日本100名城の一つでもある。


江戸時代、大阪は「天下の台所」といわれ、日本の商業・流通・金融の中心地であった。諸国の物産は大阪に集められ、そこで販売されて再び諸国に運ばれたり、また長崎を通じて諸外国へ輸出された。諸藩は現在の中之島周辺となる、堂島川、土佐堀川、江戸堀川に沿って蔵屋敷(倉庫兼取引のための藩邸)を設けていた。元禄時代(1688-1705)から蔵屋敷が増え始め、天保年間(1830-1844)には、124邸に及んだという。明治5年(1916)の廃藩置県の時には、135邸あったそうだ。旧黒田藩(福岡藩)蔵屋敷の表門は、江戸時代中期の蔵屋敷の遺構をもつ数少ないもののひとつで、現在の中之島三井ビル付近にあった。昭和8年(1933)、同ビル建設に際し三井社から大阪市に寄贈、現在は天王寺公園内、大阪市立美術館南側に保存されている(大阪府有形文化財)。


次は 慶沢園、ここも美術館の入場券があれば無料です



慶沢園からのハルカス

慶沢園は住友家がこの地に移った際、約10年をかけて本邸(茶臼山邸)とともに造営した庭である。
この庭園の設計・施工を担当したのは当時の高名な庭師であった小川治兵衛である。
大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園である
住友家は神戸住吉に本邸を移し、翌、昭和元年に敷地12,940坪を大阪市へ寄贈した。昭和9年(1934)には一般公開された




天王寺の天女

1984(昭和59)年から中央改札口前の中央に設置。「天女の下」が待ち合わせ場所として親しまれてきたが、同駅の耐震工事に伴い一時撤去されていた。
2010年から撤去されていた「天女像(来迎飛天像)」が 2013.6.19再び設置された。
切符売り場の上という目立たない場所なのが残念です。いつか元の場所に戻ってくるのかな・・・

来迎飛天像は天上から浄土への使いとして来る天人の像で、大阪帝陵ライオンズクラブが駅を利用する人の安全と幸せを祈り、永遠の平和との願いを込めて寄贈した。 像は、四天王寺・五重塔に向かって飛翔する方角に設置されている。
今のところからは見えないけれどね・・・・
長年天王寺駅を利用していると忘れてしまう。
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