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坂崎出羽守の墓

2011-02-05 | 街角の話し
島根県津和野町の永明寺にある。
永明寺(ようめいじ)は、、津和野藩の代々の菩提寺でもある
百寺巡礼にも選定されているので、往訪したことがある。2008.11.30
ここ。
津和野というと掘割の鯉が有名過ぎるが、ここ永明寺(ようめいじ)は島根県最古の禅寺であると共に島根県が生んだ文豪、森鴎外(森林太郎)の墓があることでも有名。
さらに坂崎出羽守の墓もある。冒頭の写真がお墓。

坂崎出羽守は関ヶ原の合戦の戦功により、慶長6年(1601年)津和野藩の領主となり、16年間にわたって藩のためにつくし、多くの偉業を残したという。

 後、大阪夏の陣で偉功を立てたが、有名な千姫事件で徳川家康の怒りにふれ、領地没収、本人は切腹という悲運の最期をとげた。
 墓はかつての城主のものとは思えないほど質素で貧相である。何故このような目立たない小さな墓にしたのか。徳川幕府からの無言の圧力があったのかもしれないという言い伝えがある。

  墓石には「坂井出羽守」と刻まれているが、当時徳川幕府に遠慮したためという説もある。
墓の前に立つと坂崎出羽守の無念さが伝わってくるように感じられてならない。
千姫は秀忠と江の長女として生まれ、祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であった。7歳で秀頼と結婚し、大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
この時千姫を助けたのが坂崎出羽守であると言われる。
その後本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主坂崎出羽守が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚した。家康との密約で千姫と結婚出来る約束が反故にされたためという説がある。
冒頭の写真は週間江戸の49号に載っている



雑誌社からは、写真を使いたいという連絡はあった。
坂崎出羽守の墓の写真は他にはなかったということだろう。

クレジットが洩れているのは、愛嬌だが。坂崎出羽守の無念さと同じ(笑)


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コメント
 
 
 
はじめまして〓 (ろぼ)
2011-09-12 06:24:36
坂崎出羽守ファンの者ですこんにちは。

秀忠は出来立ての徳川政権の土台が出羽守謀反で崩されるのを恐れたとか。まだ磐石でない諸侯の裏切り?を恐れたそうですね

もしそうならば、歴史は変わっていたのかも。

通行人の戯言でした。
 
 
 
ろばさんありがとうございます (kazu_san)
2011-09-13 10:32:59
坂崎出羽守ファンとは珍しいですね。津和野のお生まれですか?・・・・
 
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