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近くの散歩49  池上曽根弥生学習館(池上曽根史跡公園)

2024-09-05 | 小林会報
泉大津市千原町
ようこそ、紀元前52年へ
池上曽根弥生学習館は、弥生時代のものづくりを「いつでも」「だれでも」体験できる施設です。泉大津市と和泉市に広がる弥生時代の大集落「池上曽根遺跡」。その北側で、弥生時代を「みて」「きいて」「ふれて」楽しんでください。

弥生時代
弥生時代(やよいじだい、旧字体:彌生時代)は、日本列島における時代区分の一つであり、「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代」とされる。年代としては紀元前10世紀あるいは紀元前9-8世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立した。一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされるが、古墳時代の開始年代には異論もある。
 
池上曽根遺跡は、弥生時代中期頃の環濠集落です。広さは約60万平方メートルで、環濠の内側に、掘立柱建物群があり、中央には大型の掘立柱建物があります。花粉などの自然遺物の分析により、アカガシなどの広葉樹の森や、アシ、ススキなどの湿地草原が遺跡周辺に広がっていといたと思われます。
後方には大阪湾がみえます。二千年前の大阪湾は、池上曽根遺跡のわずか2キロメートル後方にまで迫っていました。 遺跡の東側を横切って走る大きな道路が、第二阪和国道(現26号線)です。弥生時代にはその道路の手前と、遺跡の奥に河川がありました。
手前の河川では堰が発見され、遺跡の北側には水田が拡がっていたと考えられます。ただし、池上曽根遺跡が最も栄えた「弥生時代中期後半」には河川の流れは止まっていたようです。この二本の河川にはさまれ、二条の環濠が、集落をとりまいています。その外側には方形周溝墓(弥生時代のお墓)があったようです。池上曽根遺跡では、お墓は集落の外側に造る習慣があったのかもしれません。
また、環濠のまわりには竪穴住居が密集していました。竪穴住居には、一時期に「何棟存在」し、「何人の人」がいたのか人口をめぐる解釈は様々です。
池上曽根遺跡は平野部に位置していますが、二千年前には河川などの影響もあり、今よりもっと起伏に富んだ地形をしていました。
信太山丘陵からも2キロメートルと近く、海と川と山に挟まれた豊かな土地であったようです。
構造概要説明文化財種別
弥生時代の環濠集落遺跡 および 復元建物

和泉市池上町から泉大津市曽根町に広がる、南北1.5km、東西0.6km、総面積60万㎡もの規模をもつ弥生時代の遺跡。直径300mにおよぶ環濠により囲繞されていた。1995年に集落の中心部で弥生時代最大級の建物跡と井戸が発見された。1999年には大型掘立柱建物跡の近くで発掘された絵画土器を参考に、切妻屋根と独立棟持柱形式の建物「いずみの高殿」と、直径2.3mのクスノキを刳りぬいて井筒にした巨大刳り抜き井戸「やよいの大井戸」を復元し、史跡公園として整備。周辺の池上曽根弥生情報館・池上曽根弥生学習館・大阪府立弥生文化博物館はいずれも吉羽逸郎の設計である。
国史跡


紀元前52年の柱
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