goo

武部好伸 先生 読売新聞に載る

2022-05-23 | 街角の話し
初小説 映画史に一石

日本で最初に、活動写真(映画)をスクリーンに映し出したのはどこか。通説では「1897年(明治30年)京都市での試写」とされてきたが、「大阪・難波の方が早い!」と異論を唱えたのが、エッセイストの武部好伸さん(67)だ。上映“一番乗り”を目指すしのぎ合いを小説「フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一」として世に問うた。大阪愛あふれる作品への思いを聞いた。

 子どもの頃、大阪市東区(現・大阪市中央区)の龍造寺町に住んでまして、地名への思い入れが強いので、小説のペンネームは「 東龍造ひがしりゅうぞう 」です。映画が大好きで、大学では音楽演劇学を専攻しました。映画作りの実技を学べるかと思ったのに理論が中心だったので、大学には行かずに家の近所の映画館にばかり通ってました。年間500本以上も見て、入場料を稼ぐのにアルバイトしてましたから、大学に行く暇なんかありません。

 その後、新聞社に入って、科学部や文化部で記者として働き、1995年に退社。今はエッセイストとして活動しています。
 大阪を舞台にした映画約650本を調べてゆかりの場所を紹介するエッセーを映画雑誌に連載し、平凡社から「ぜんぶ大阪の映画やねん」というタイトルで出版。その中で行き当たったのが、荒木和一でした。

 私も通説通り「日本初は京都」と思っていましたが、資料を調べていくと、現在の「なんばパークス」(大阪市浪速区)のあたりにあった鉄工所で、1896年末に荒木が関係者を集めて試写会をやっていました。映写機はアメリカから輸入した「ヴァイタスコープ」という機材でした。

 「初めての映写も大阪や!」と大興奮。2016年に「大阪『映画』事始め」という本にその経緯をまとめると、読んだ人から「事実は小説より奇なり!」「小説にしたら?」という声が寄せられました。日の当たるところより、日陰にそっと咲く花の方が好きな性分。“一番乗り”したのに認められない日陰の荒木――。「よし、小説にしてみよ」と執筆に取りかかりました。

 あるパーティーで知り合った大手出版社の編集者に頼んで、最初に書き上げた原稿を読んでもらったら「さすが元新聞記者。事実関係がしっかりしている」と言われました。ほめてもらったのかと思ったら「小説は、事実と事実の間を読者に読ませなくてはいけません。いわばウソが必要なんです」と言われてしまいました。

 それではと、特許権などを持っていたエジソンに荒木が直談判するシーンなどにフィクションの要素を加えて書き直し、もう一度その編集者に見せたら「なるほど、これならいいですね」という。

 「ほなら出版してもらえます?」

 「あぁ、うーーん。うちからはちょっと」

 「えー? そぉなん?」

 ということになり、結局、「つて」を頼って出版してもらうことになりました。もちろん、アドバイスがあったからこそなので、その編集者にも感謝しています。小説を読んだ人からは「映画にできそうですね」との声をいただきました。

 次は、織田作之助の小説「 夫婦善哉めおとぜんざい 」にも登場したぜんざい店のお多福人形「おたやん」について書いてみたいと思っています。(聞き手・彦坂真一郎)


 ◆1954年、大阪市生まれ。大阪大文学部美学科卒。元読売新聞大阪本社記者。エッセイストとして、映画、ケルト文化、洋酒、大阪をテーマに執筆、著書も多数ある。小説はペンネームで執筆した。

小生も 武部好伸 先生が大好きです
ホームページに載せています
ここ

代表作の「ケルトシリーズ」は全巻読みました
他にも 何冊か読みました
先生との出会いはJR塚本のBAR 婆娑羅です。店長は曽我和夫さんです。
ボビーズ.バーにも誘われて飲みました
THE TEMPLE BAR と BAR Boby's  大阪市北区曽根崎です
講演会にも何度か行きました
最新は2016-12-19 武部好伸先生講演会   関西大学梅田キャンパス
ここ

想い出一杯です
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )