無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前々回及び前回からの話の続き。

「欲しがりさん」で「せがみっ子」なHikkiに違和感を感じる人は、『抱きしめて』などの後に「(ほしい)」のような補助用言を補うのを止めてみよう、と言ってみた。

ちょっとだけ、具体的にみてみようか。

『雲の中 飛んでいけたら
 大空で抱きしめて』

もし『抱きしめて』の後に「(ほしい)」などを補うのをやめたら、抱きしめる主体が自由に選べる、という話をした。なぜそれが文脈上比較的自然に行えるかといえば、「(ほしい)」をやめる事で欲求や願望を示す文である必要がなくなったからだ。要するに「ただの妄想文」になった。なれた。

「もし私が雲の中を飛んでいけたとしたら、まずあなたを抱きしめて、それからそれから…」という風に、空想上の計画を練る時に接続助詞「て」は威力を発揮する。

どうだろう。少しずつ「昔のHikki」に近づいてきたかな?
もう一文。

『いつの日かまた
 会えたとしたら
 最後と言わずに
 キスをして』

これもまた「キスをして(ほしい)」という補完をやめてみる。「て」にただの接続助詞に戻ってもらおう。

「いつの日かまた私があの人に会えたとしたら…そうね、これが最後なんて言わずにキスをしてね、それからね…」と言ってる風に(も)解釈できるようになる。

「(ほしい)」を取り去ったら、歌詞の寂しさが増すのだ。

一人っ子の人ほど共感するのではないかな。ままごとなどして1人で遊ぶとき、怪獣やロボを使って物語をつくるとき、「あれをして、これをして」という風に呟きませんでしたか。或いは今度の日曜日に久々にお父さんがお出かけに連れて行ってくれるときいたとき、「あそこに行ってあれをして、これをして…」という風に頭の中が期待で溢れたりしませんでしたか。

そういう感じに『大空で抱きしめて』の歌詞を読んだ方がより寂しさが増す。願いを相手にぶつけるのではなく、ただ自分の頭の中で空想するだけだからだ。空に想う? いやそれは考え過ぎだけど(笑)、相手に願いをぶつける事無くあっても自己完結して諦める。それが「昔ながらのヒカルさん」ではなかったか。大人に期待したり甘えたりは、気持ちが幾らあってもしなかった人だ。今もそう、と思う為には『て』のあとに何もつけなければよいのである。

仮に相手が死んでいて本当にもう会えないのだとしたらこの空想は寂しいだけでなく哀しさも増すだろう。まだ願いを口にするだけましである。相手が死んでもそれすら言えずに自己完結していたとしたら、それがこども・我が子だとしたらそれこそ抱きしめたくならなきゃ嘘である。『て』。魔法のように我々を惑わす一文字なのだ。


で、だ。ここまでは話の前フリだ。ここからが、私にとっての本題である。『大空で抱きしめて』の歌詞の中には、補助用言を省略して解釈できる文と、やりづらい文、できない文も含まれているのだ。こここそが話の肝になる。長くなった(&遅くなった)ので続きはまた次回のお楽しみ。次々回、かな?

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前回からの続き。

ヒカルさんが昔に較べてずいぶん「欲しがりさん」「せがみっ子」になったなぁ、という話。ほんまにそうなんかな?と。

確かに、『花束を君に』でどストレートに『抱きしめてよ たった一度 さよならの前に』と歌いきったので、だからこその今回の『大空で抱きしめて』なんですけどね。『真夏の通り雨』ではカタカナの『サヨナラ』でまだ別れを現実として受け止めきれていなかったのに『花束を君に』ではひらがなの『さよなら』で現実を受け入れつつある事を…ってこの話もう昔にしたヤツだな。話を戻して。

この「せがんでばかり」のヒカルさんを、少し昔のイメージに近付ける方法がある、というのが今回の主題。

今述べた通り、『花束を君に』の記憶がまだ新しいうちに今回の新曲『大空で抱きしめて』は配信された。タイトルをみて花束の『抱きしめてよ』の残像を持つ人の多くが『大空で抱きしめて(ほしい)』と脳内で補完した筈だ。いや「くれ」でも「ちょうだい」でも何でもいいんだけどね。抱きしめてほしい、抱きしめてくれ、抱きしめてちょうだい。

歌詞の他の部分も同様だ。「抱きしめて(ほしい)」「キスをして(ちょうだい)」「迎えに来て(くれ)」みたいな感じで皆補助用言(ググッてみると、形式動詞とか何とか、色々呼び名があるんだねぇ)を脳内補完して読むだろう。勿論、間違っちゃいない。それで歌詞の解釈としてはOKだ。そこを敢えて、である。

やめてみよう。補助用言を補完するのを。

つまり、『抱きしめて』の後には何も省略されていないと解釈するのである。見たまんまだ。

となると語尾の『て』は、ただの接続助詞になる。どういう事かというと、「野菜を切って、炒めて、煮込んで」という時の「て」のように、順序や並列を示すだけのものだと捉えるのだ。

「もし今度の日曜日に遊園地に行けたら? えぇっとね〜、まずメリーゴーランドに乗って〜、観覧車のいちばん高いところで写真を撮って〜、ジェットコースターで絶叫して〜、美味しいご飯を食べて帰る!」という時の「て〜」だ。ただ単に文章を繋げる為だけの、ね。

そうするとどうなるか。

主語が入れ替わったりするのだ。

見てみよう。

『雲の中 飛んでいけたら
 大空で抱きしめて(ほしい)』

だとしたら主語は

私が、飛んでいけたら
あなたに、抱きしめてほしい

という風になる。
しかし、(ほしい)を補完しないと

私がもし、飛んでいけたら
あなたを、抱きしめて

という解釈も可能になるのだ。抱きしめにかかる主語があなたや君から私や僕に変わるのである。


…ただの稚拙なレトリックだよね? うん、私もそう思う。しかし、この思考実験を通じて見えてくるものも確かにあるのだ。次回はその話。

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