無意識日記
宇多田光 word:i_
 



先日書いた通り、自粛を実施するにせよバカ騒ぎを敢行するにせよ大切なのはそれが「どこの誰を思って」のものなのかという点だ。腹の底から笑いたいという気持ちを持つ人は被災地だろうが平常時だろうが(割合や分布に変化はあるかもしれないが)一定度合い存在する事は確実で、そのニーズにこたえる為に芸人さんに頑張って貰うのはよいことだと思う。問題なのはそのニーズをもつ人々に(出来ればピンポイントで)笑いを届ける事が出来るかどうかだ。その点で、実は地上波全国放送のTVは圧倒的に不向きなのだ。日本でいちばん"不特定多数"に"届いてしまう"メディアだからである。

いつも自粛派のいう事で疑問なのは「身近な人を失った人の気持ちを考えろ」とか「まだ被災地で苦労してる人が沢山居るんだ」とかいった話だ。そんな事を言うんだったら平時だって毎日人は死んでるし火事で焼け出されて途方に暮れている人も居るんだから自粛するんなら毎日自粛するべきなのだ。

然し、大災害時と平時の何が違うって彼らがテレビを見ている志向性と確率である。身近な人が亡くなった場合、通夜だ葬式だと何かと忙しくテレビでバラエティー番組を見る時間なんてほぼない。見たい人は何とか時間を作って自分で見る。火事で焼け出された人も同じくだ。テレビを見たって今自分がどうすればいいかなんて教えてはくれないのだから。これが大災害時となると事情が変わる。皆がこぞってテレビやラジオに釘付けになる。チャンネルによっては安否情報や被害状況などを教えてくれるからだ。そんな心持ちでテレビをつける人々に対してサザンのTSUNAMIの換え歌でも歌おうもんなら以下自粛(←自虐)。

つまり、自粛とは地上波全国放送テレビの様に「大規模な災害等を被った人たちが大量に、"積極的に"リーチしようとする」メディアには一定の意味がある。不特定多数度が著しく高く誰が観るかわからない事がいちばんの理由なのだ。

この点はほぼ自明な筈なのに、なぜか地上波全国放送テレビという特殊なメディアのやり方に追随して他のイベントやコンサートを自粛しようという事象が発生する。観に来る人は観に来たいから来るのだからそこには何も問題もない。外野が何か言うのは野暮というものだろう。押し付けがましい事をしてこない限りは"観たくないなら観なければいい"だけの話である。

ただ、現時点でのイベント中止やCD発売延期の処置は自粛というより単に「今やってもリーチしないんじゃね?」という判断のケースが多いようだ。これは各イベンターの、まぁ言ってみれば算盤勘定だから別にそれはそれでいい気がする。

こうやって冷静に考えてみると自粛するにせよしないにせよそれぞれの事情、この場合は誰にどのような形で届けるか・届くか・届いてしまうかという点を見つめれればそんなに対処に迷わない気がする。こういう事は確かに実際にやってみないとわからない事も多いのだがそれは平時だって同じこと。何が成功して何が失敗するかなんて事前にはわからない。要は地上波全国放送テレビのケースみたいな特殊な事情を背景にもつ対処法を闇雲に追随せずに各個別のケースで判断しましょうよ、届ける相手の顔を出来るだけ明確に思い浮かべましょうよということである。

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3/15朝の更新はお休みにしますご了承くださいm(_ _)m

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こういう時にいつも話題になるのが「これだけの犠牲者が出てるのに大笑いしたりおおはしゃぎしたりするのは不謹慎だ自粛しろ」という意見。問題なのは、これが大抵当事者以外から聞こえてくること。勿論当事者達からすればそういう思いを仮に持っていたとしてもなかなか(当事者であるという事実がある為に)言い出し難いからその代弁をしなくては、という義務感使命感が発言者にはあるんだろうし、その気持ちはよくわかる。なので、いろんなケースを考えて自粛を呼び掛けてみることは悪くない。言ってみないと何が適切かなんてわからないからね。

でも、僕としてはこう考える。死んでいった人達は、残していった親しい家族や恋人や仲間に、悲しい顔をして貰いたくて死んでいったのか? 違うだろう。無念のうちに死んでいった筈で、彼らを悲しませたくて死んだわけじゃない。できることなら、遺った人達には、そりゃ自分が死んだら多少は悲しんで貰わないとそれはそれで寂しいけれど、できれば自分が居なくても力強く人生を生きて欲しい、と思ってる筈だ。今は自分が居なくて辛いだろうけれども、少しずつでも元気を取り戻していってほしい、草葉の陰でそう願ってるんじゃないか。私が「死者のことば」を書くのは珍しいけれど、これは死の間際に彼らが持っていた願いや祈りだと云った方がいいかな、彼らが生きてた時の最後の願いを汲み取りたいと想像してみてるわけさ。

それを考えると、自粛して厳かに彼らを送り出したり、彼らを喪って悲しみにくれている人達と気持をひとつにしてともに悲しむ事も大事だと思う一方、これからの色んな苦難に向けて力強く人生を歩んでいく力を与えることもまた大切だと思う。そして、そういう気持の推移は、親しい人を喪った人達ひとりひとり違う筈で、できれば悲しんでばかりいずに、今生きてる人達と一緒に死んでいった人の分まで楽しく幸せに生きていきたい(って被災地でそういう風に考える所まではとてもいかないかもしれないけれど)、そう願ってる人達も居るんじゃないかと思う。これも、実際にはたらきかけてみないとわからない。

だから、自粛すべき、と言ってる人達と同じくらい、今迄通り、今迄以上に馬鹿騒ぎしたり大笑いしたり、っていうのを促す人達の頑張りもまた、やってみるべきだと思う。そりゃ両者は対立するさ。意見なんて食い違うばかりで合うとは思わない。でも、僕らが本当に耳を傾けるべきは、今大切な人を喪ったり被災して普段とは違う過酷な生活を強いられてる人達の声である筈で、多様な気持の揺れをもってる彼らにどうアプローチするべきか、やってみないと、言ってみないとわからない。何が言いたいかというと、どちらも被害者のみんなのことを思う気持には変わりがなく、方法論の違いだけなんだから、どちらの方法が失敗しようと成功しようと気にしないで欲しい、ってこと。失敗して謝るべきは気持を汲みとってあげきれなかった相手に対してであって、今他の場所で意見を言い合ってる僕ら同士の話じゃない。そこの点だけは、ちゃんと整理していろいろと活動するべきだ。

だから、今の神妙な報道一辺倒の地上波の様相は素直に首肯できない。なんというか自粛&厳粛ムードが勝ち過ぎてる。ぶっちゃけ、情報提供にはテレビっていうメディアは向いてない。ひとりひとりに対してきめ細かい情報を提供するという機能とは対極にある(同じことをみんなに教えることには長けている)。でも、これだけチャンネルの数と長い放送時間があるのだから、できるだけ両方の意見が入り乱れて放送された方がいいんじゃない? そういう意味で、教育テレビとテレビ東京系は素晴らしい。今は旗色が悪いけど、頑張れ不謹慎!頑張れ娯楽番組! 各地の馬鹿騒ぎイベントも負けるな! こういうときこそ、人に笑顔を与えられる仕事ができる人が羨ましいよ。


光の歌もラジオで掛かっているんだとか。被災地のみんなにも届くといいな。

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停電の影響で通常更新は取り止めにして番外編ということで昨晩のツイートを軽く纏め直したいと思ふ。

恐らく、今回被災死した方々の中にも確実に宇多田ヒカルファンは居る筈で、見知らぬ仲間達の事を考えると悔やんでも悔やみ切れない。地域性からみて一度もナマで光が唄う姿を観る事なく、というケースも多々あったに違いない。が、それは今回の様な大規模災禍のケースに限らず(こう言うのも些か奇妙だが)通常の事故や病気で亡くなっていった方々にも言える事だ。そして、光は今迄様々な手段でそういった人々の存在を痛感してきている筈。それを承知・覚悟の上でそれでも今人間活動に入らなければならないと決めたのだから、それはもう熟慮に次ぐ熟慮の上での決断だと思う。

何が言いたいかというと、今回の事があったからといって例えば復興支援コンサート等への参加を被災地の内からも外からも彼女に要請するのは些か酷かもしれない、という話だ。勿論、それによって勇気づけられ励まされる事は間違いないしそういう要望を出す事が間違いだとも悪い事だとも思わないが、例えそういったオファーを出した際に断られたり、無反応だったり、或いはレコード会社主催イベントやフェスティバル等へ不参加だったとしても彼女を批難するのは筋違いだという事だ。恐らく、どこの部署もアーティスト活動休止宣言を尊重してくれると思うので、そういった混乱はなさそうだとは思うけど。

一方で、そういった背景を翻して彼女が一時的にでもアーティスト活動を行った場合もその決断に対して異を唱える事はしないし、出来れば皆もしないで欲しい。人生何が起きるか解らない。流石に光もここまで大きな災害がこのタイミングで起こる事は予測できなかっただろう。尤も、昨年末二十四の瞳についてツイートした直後に映画版主役の高峰秀子が亡くなったり今回も祝島の原発問題を扱った映画の話をした直後に原発が国民的関心事になったり、と相変わらず物事のタイミングはよいのだが。ただ、勿論コレは結果論で“真の予言性”とは、言った当人がその真意を測り倦ねるものなので、光当人が一番驚いてるのは間違いない。それもまたいつものことかもしれない。


あれ?なんか結構当たり前の事書いちゃったかな?(汗) ココの読者にとっては「何を今更」な話だったかもしれませんすいませんっしたっ。


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過去はうらぶれた時期もあったけど今は食生活も人間関係も安定してめっきり綺麗になって―というイメージを最近の光に抱いてはいるものの、ソレでも何となくシックリ来ないのは新曲もLIVEも過去最高に図抜けて素晴らしかったからだ。つまり、その極端な充実に"人間"の方が追いつかないから人活に入るのだ、と私側には見えている。低姿勢と言えば言い過ぎかな、コレだけ数々の仕事(偉業、だわ)をしておいて当人が"胸を張る"事をしないのは何故だろう。周囲からの好反応に喜ぶ事は多々あるのだが。コレより更に"上"が見えてしまってるから、なら大したもんなんだが。

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誤解されると張り裂けそうさと歌う女子に対して綱渡りな歌詞の解釈を続けるのは残酷な仕打ちだなぁといつも思うが、中でも「COLORSの歌詞も又予言的だった」と指摘するのが一番デリカシーに欠けた行為だろう。歌の内容は別れ話でとても新婚旅行中に作ったとは思えないものなのだが結局約3年後に"大体そんな感じの理由で"2人は別れる。楽曲作りは兎も角歌詞を書くに際してはトラウマや(ネガティヴな事を書いたらソレが実現してしまうのではないかという)恐怖を抱えてしまった時期はなかったのだろうか。光はいつだって『歌詞なんだから』と云うだろうけど…。

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奇妙な帰結というべきだろうか、当初親友を讃える歌に"MakingLove"なんて名前を付けるとはどういうつもりだと疑ったものだが、結果として確り彼女を守る名前になっている気がする。能書きをどう垂れても的外れになりそうだからその構造を詳細に分析するのは諦めるが、光に最初からそういう意図があったかどうかだけは気になる。シンコレ1にあった様に自らも後々迄自覚がないのか、ソレにしてはこの曲の躍動感には迷いや躊躇いがないなと感じるし悪ノリしたにしては爽やか過ぎる。ンマー、ソレがシルバーズレイリーが云う「強さとは疑わないこと」の極意かもしれないな。

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ムキになってる訳でもないのだが、光自身が『「休養」でも「充電期間」でも無い』とメッセでハッキリ書いている為当欄では"人活/アー活休止期間"の表記で統一している。螺旋が絡み合う様にプライベートとパブリックを影響させあってきた光の人生・生活が単一の軌道に一旦統一される―そんなイメージを人活に持つ場合、休んでいる方の道は成長が止まる筈だ、と考える私なので光が云う『結果的にはアーティストとしての私の成長につながるはず』の"結果"が実る迄に10年以上掛かると思ってしまう。さもなくば人活は普通にリフレッシュの為の休養・充電と云って問題無い気がするから。

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通念とは些か異なるかもしれないが私はこの童話の教訓を「三男がのんびり煉瓦を積んでいられたのも長男次男が藁や木の家に狼を引きつけていてくれたから」だと解釈している。世知辛い世の中を乗り越えていく為には長期中期短期各々が助け合って進んでいくべきだ、という意味合いだ。―コレをUtaDAに当てはめるならUMGには長男しか居なかった為次男三男を擁するEMI家に避難した、という感じになるか。実際、無期限活動休止という超長期計画下での契約なのだから次帰ってきたら短期で成果を上げて休止が有意義だった事を証明しなくちゃいかんかもな。

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近頃TVラジオ雑誌等でスポーツ選手やお笑い芸人や音楽家のインタビューを色々読み聴きしていて、本業で一流な人はインタビューも面白いなと膝を打つのだが何故かJPopミュージシャンのものは総じて圧倒的につまらない。なるべく我慢して傾聴してみるが、ダメだ。類型的というかソコでしか聞けない言葉が皆無なのだ。パターン化された去年後半の光のインタビューも又つまらなかったが、ソレは伝えたいメッセージが明確な為ダイナミズムが入る余地が無かった所為でちゃんと普通にインタビューをすれば昔の様に面白い事を喋ってくれるよ、と私が言い切れない位なので人活中は是非ソコラヘンを鍛えて下さい。

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―リリースはあクマでも上層部の決断―光はメッセでUtadaTheBestについてこうコメントした訳だが、だとすると当時某誌で分析していた通り、将来に渡って利益を出し続ける事が期待されるUtaDAという素材を無為に浪費した理由は彼らが超短期の利益を優先した為だという解釈に合点が来る。実際、関わっている人間は大半が雇われで彼らにとって大事なのは個人の成果であって会社全体や、ましてや音楽業界全体の成果ではないのだからコレも宜なるかな。歌が好きという素朴な感情だけでは商売にならないが、適切なインセンティヴを設けないと商売も失敗するとは何とも難しい。

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宙ぶらりんのITF10のリリースを祈念し同公演の魅力をアピールしてみる。何よりも先ず、スタゲ&トリッキーの音作りに較べバンドサウンドな分全体的にどの曲もロックテイストが強くなっているのが特徴だ。ルーツに70'sがあるラファのハードなリズムギターがOn&OnやPoppin等の感触を劇的に変化させている。パンクっぽいPlaceboのカバーをセットリストに嵌め込む事が出来たのもアレンジ全体がハード寄りだったからだ。ツアーがライブハウス主体だった事や現地の聴衆の積極性も相俟って他のツアーより一層"熱さ"を感じられるのがITF10の魅力であり、洗練されたWLのVer.と重複する曲も是非聴き較べてウタダキタイものである。

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然し、"今更"権利関係のクリアランスが必要だというのは若干暗澹たる気持ちにさせられる、というのもUMGからしてみれば(幾ら事実とはいえ)自社の評判を落とす発言をしたアーティストによい気持ちは少ないだろうからだ。のみならず他社(ザネッチの言い方からするとEMIとは限らない)の利益に与するとなれば法的に問題がなくとも"乗り気になれない"のはある程度仕方ない、かな。迂闊な事は言えないが、然し、例えば年度が変わって担当者も交代する、なんて事態になったら呆気無く話が進んでしまうかもしれないので、ファンは希望を捨てず要望を出し続ける事が肝要だろう。

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絵になる写真・近影が増えたとはいえ、光に対して云う"カワイイ"は仕草や目線、表情の移り変わり等動的なものな為中年期も壮年期も老年期も今と然程変わらずカワイイと云われ続けると思うが、今云われる"キレイ"は多分コザッパリした今だけのものだ。抜きん出た美をこの後獲得していき"美しい"と盛んに云われる時期がきっと来る。私の予想ではソレは40才と60才の2回ある(勝手に決めてます)。多分その間に野暮ったい雰囲気の時期やうらぶれてボサボサの時期なんかも挟むと思うのだがそういった記録(写真・映像)が今後数年間分途切れるかと思うと悔しくて仕方がない。

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"中途半端"というイディオムが結構好きで、足が2本だけ生えたオタマジャクシとか小さい頃はマジマジと眺めたものだが、今の光は丁度その時期なのかなぁと感じる、というのもツイッターを見ていると最近カワイイと言われるよりキレイと言われる事が格段に多くなったからだ。やはりペプCMイムアラムール編の印象は大きいだろうしカマトトぶってウチのウタダタブをカワイイで埋め尽くしたCWTC編を経ても大きな流れは"キレイ"に傾いてる様にみえる。見た目が大きく変化する時期は、然し、上記のオタマジャクシの様に内側が脆弱になっているのが常だからアー活休止で衆目を避けられるのは少し安堵かもしれない。

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