こういう時にいつも話題になるのが「これだけの犠牲者が出てるのに大笑いしたりおおはしゃぎしたりするのは不謹慎だ自粛しろ」という意見。問題なのは、これが大抵当事者以外から聞こえてくること。勿論当事者達からすればそういう思いを仮に持っていたとしてもなかなか(当事者であるという事実がある為に)言い出し難いからその代弁をしなくては、という義務感使命感が発言者にはあるんだろうし、その気持ちはよくわかる。なので、いろんなケースを考えて自粛を呼び掛けてみることは悪くない。言ってみないと何が適切かなんてわからないからね。
でも、僕としてはこう考える。死んでいった人達は、残していった親しい家族や恋人や仲間に、悲しい顔をして貰いたくて死んでいったのか? 違うだろう。無念のうちに死んでいった筈で、彼らを悲しませたくて死んだわけじゃない。できることなら、遺った人達には、そりゃ自分が死んだら多少は悲しんで貰わないとそれはそれで寂しいけれど、できれば自分が居なくても力強く人生を生きて欲しい、と思ってる筈だ。今は自分が居なくて辛いだろうけれども、少しずつでも元気を取り戻していってほしい、草葉の陰でそう願ってるんじゃないか。私が「死者のことば」を書くのは珍しいけれど、これは死の間際に彼らが持っていた願いや祈りだと云った方がいいかな、彼らが生きてた時の最後の願いを汲み取りたいと想像してみてるわけさ。
それを考えると、自粛して厳かに彼らを送り出したり、彼らを喪って悲しみにくれている人達と気持をひとつにしてともに悲しむ事も大事だと思う一方、これからの色んな苦難に向けて力強く人生を歩んでいく力を与えることもまた大切だと思う。そして、そういう気持の推移は、親しい人を喪った人達ひとりひとり違う筈で、できれば悲しんでばかりいずに、今生きてる人達と一緒に死んでいった人の分まで楽しく幸せに生きていきたい(って被災地でそういう風に考える所まではとてもいかないかもしれないけれど)、そう願ってる人達も居るんじゃないかと思う。これも、実際にはたらきかけてみないとわからない。
だから、自粛すべき、と言ってる人達と同じくらい、今迄通り、今迄以上に馬鹿騒ぎしたり大笑いしたり、っていうのを促す人達の頑張りもまた、やってみるべきだと思う。そりゃ両者は対立するさ。意見なんて食い違うばかりで合うとは思わない。でも、僕らが本当に耳を傾けるべきは、今大切な人を喪ったり被災して普段とは違う過酷な生活を強いられてる人達の声である筈で、多様な気持の揺れをもってる彼らにどうアプローチするべきか、やってみないと、言ってみないとわからない。何が言いたいかというと、どちらも被害者のみんなのことを思う気持には変わりがなく、方法論の違いだけなんだから、どちらの方法が失敗しようと成功しようと気にしないで欲しい、ってこと。失敗して謝るべきは気持を汲みとってあげきれなかった相手に対してであって、今他の場所で意見を言い合ってる僕ら同士の話じゃない。そこの点だけは、ちゃんと整理していろいろと活動するべきだ。
だから、今の神妙な報道一辺倒の地上波の様相は素直に首肯できない。なんというか自粛&厳粛ムードが勝ち過ぎてる。ぶっちゃけ、情報提供にはテレビっていうメディアは向いてない。ひとりひとりに対してきめ細かい情報を提供するという機能とは対極にある(同じことをみんなに教えることには長けている)。でも、これだけチャンネルの数と長い放送時間があるのだから、できるだけ両方の意見が入り乱れて放送された方がいいんじゃない? そういう意味で、教育テレビとテレビ東京系は素晴らしい。今は旗色が悪いけど、頑張れ不謹慎!頑張れ娯楽番組! 各地の馬鹿騒ぎイベントも負けるな! こういうときこそ、人に笑顔を与えられる仕事ができる人が羨ましいよ。
光の歌もラジオで掛かっているんだとか。被災地のみんなにも届くといいな。
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