無意識日記
宇多田光 word:i_
 



でまぁ昨日深夜に百合姫開いて「2DKGペン目覚まし時計」の最新話を読んで「ひゃっほーい♪」とか叫んでた訳ですが。ええ歳したおっさんが何やってんだか。でも、社会人百合ってほんとにええもんどすな。いつアニメ化されるか楽しみじゃわ。この作品に限っては実写も許す。誰だったら演じてくれr(ry

話が長くなりそうなので強制終了(笑)。

百合の距離感というのはあからさまに出るもので、昔いちごがみるくと一緒に写った写真をみて「嗚呼やっぱり2人は百合じゃないのね」と納得した覚えがある。写真一枚で何がわかるねんという感じだが、たぶん当たっていると思う。

ヒカルの新しい特技といえば「写真一枚でその人の性格を当てる」だが、恐らくその応用というか派生として、既にやってるだろうかな、「その人の小さい頃と年老いた頃を想像する」というのもある。この人が小学校3年生の時はクラスでどんな振る舞いをしていたかとか、きっとこんなおばあちゃんになっているだろう、とかを自分が今まで出会ってきた小学3年生やおばあちゃんたちのデータを総動員して推定する。前に松本人志が「かりかり怒ってるおっさんおばはんの小さい頃を想像すると怒りも収まる」みたいなツイートをしていたが(思い切りうろ覚え)、それと似たような事だ。

自分の場合は、それをヒカルに対してずっとやってる気がする。なぜか申し訳なさそうに冷蔵庫を開ける姿やら一心不乱に(ウニみたいな)絵を描く姿やらを想像してひたすら萌える。身体中にセミの抜け殻を身に付けて無意味に得意気な姿は萌え度MAXだ。おばあちゃんの方はそれこそ未来の事なので幾パターンも妄想するが、34歳にもなって痩せるか太るかぐらいしか話題に上らない童顔ぶりは、ちょっと妄想の甲斐を下げる。嗚呼々々はいはい、そのままかわいいおばあちゃんになるのね、ってなもんでな。まぁクレオパトラヘアは劣化云々言う奴も居たが制作中や制作直後に荒れているのは毎度の事なのを知っているこちらからすれば「無知が」の一言で切って捨てて終わり。いや若い。幼いとすら言っていい。

まぁ多少は体形の変化くらいあるかもしれないが、今んとこわからないな。乳の話題をしようと思ったがそれはこどもがもうちょい大きくなってからだわ。うむ。

実際、どんなおばあちゃんになるのやら。世の中には美魔女とかいう人々も居るし、安達祐実とかはなるほどこれがネオテニーかと納得してしまうレベル。あれは極端とはいえ、何か近いものを感じてしまう。

ただ、眉毛だな。それが想像を妨げる。今眉毛を自然に生やしたらどんな感じなのかわかれば妄想がもっと捗るのだが、そこが封じられている為色々と霞が掛かるのだ。少し、巧みである。

太る、というオプションもある。最近はなんかあまり聞かないが、中年太りというのもあるのかもわからない。余計なお世話…ってかそれが切実になるのは歳が上の私らの方ですわね。

でもなんだかんだで妄想の中心は声である。トニー・ベネットがあの歳であの歌声、アレサ・フランクリンがあの歳であの響き、となるとヒカルが満足して歌えるのは何歳までなのだろう、となる。取り敢えず64歳までは大丈夫、と根拠無く昔から思ってきたが、つまりお母さんの年齢を超えてからどうなるか、というのが大きなテーマに、なるのかな。未知の領域に足を踏み入れる訳でして。

いずれにせよ私には大丈夫という確信がある。夢でみたからだ。ヒカル自身より自信がある。真実には敵わない。願いは叶う。

それはそれとして、そろそろ新しいアーティスト写真は見られるだろうか。どんな格好で現れてくれるか、楽しみ楽しみ。

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最近今まで以上に短文でまとまらない。枕のつもりで書いただけの話題が3回連載になったり。尺の感覚がないというより「まぁいいか」と油断しているのが大きいんだが。今日も油断全開でいきますか。

先日読んだ元SONY丸山氏のインタビューに「もう音だけのコンテンツは駄目かもしれない」とあった。皆が最初にコンタクトするのはスマートフォンの画面なのだから、何らかの視覚系コンテンツとの結びつきの中でないと聴覚系コンテンツは生き残れない、と。同感だ。

そもそも、聴覚系のみがコンテンツとして独立したのはここ一世紀半の間の話で、それがまた元に戻る(単独にならない)だけである。寧ろそちらの方が自然だ。毎度言っているように、人間は音が鳴った方を見る習性がある。人間に限らず、聴覚と視覚をもつ生物の多くに言える事だ。音が鳴っているのにそちらを見ても何もない(厳密にはスピーカーがあるんだが)なんて、不自然極まりない。

しかし、ただ、イヤフォン&ヘッドフォンという文化は少々感覚が違う。あれは、両耳の間、頭の中で鳴っているような感覚だ。強いて他の体験で近いものを挙げれば、夢を見ているのに近いかもしれない。夢を見ている最中にこれは夢だと認識できる事は稀であるとはいえ。

その感覚をすぐさま嗅ぎ取って歌詞にした歌が『For You』だった。『ヘッドフォンをして人混みの中に隠れるともう自分は消えてしまったんじゃないかと思うの』という冒頭の一節。社会の中での"位置"を失うデバイスとしてヘッドフォンが登場している訳だ。歌の主眼はそれを通して群衆の中の孤独感から…という話に繋げていく訳だが、ヘッドフォンが耳栓としての役割、即ち隔絶の象徴として機能している点にも注目してよいだろう。「今ここ」という現実から遊離して夢の世界、自分の内面世界に飛び込む為の"ひみつ道具"である。

こういう使い方をするのであれば、音声のみのコンテンツはまだまだ威力を発揮する。現実を見るのに疲れた人が目を閉じて内面と向き合う為の舞台装置、そう捉えてコンテンツを推し進めれば、音だけの世界もまた生き残れる。

これだけ手元に沢山毎時々々情報が流れ込んでくる日常において、目を閉じて内面と向き合う時間はそうそうない。以前だったら部屋に寝っ転がって天井や星空をぼーっと眺めながらなんとなく物思いに耽っていた時間も、今ではスマートフォンでタイムラインを追ったりYouTubeで次から次へと流れ込んでくるオススメ動画をダラダラと流したりして過ぎていく。内面も何もない。常に外部と繋がっているのだ。ヘッドフォンの作る隔絶という名の避難所に、たまには&久々に、飛び込んでみるのもいいかもしれないですよ。

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