無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最近今まで以上に短文でまとまらない。枕のつもりで書いただけの話題が3回連載になったり。尺の感覚がないというより「まぁいいか」と油断しているのが大きいんだが。今日も油断全開でいきますか。

先日読んだ元SONY丸山氏のインタビューに「もう音だけのコンテンツは駄目かもしれない」とあった。皆が最初にコンタクトするのはスマートフォンの画面なのだから、何らかの視覚系コンテンツとの結びつきの中でないと聴覚系コンテンツは生き残れない、と。同感だ。

そもそも、聴覚系のみがコンテンツとして独立したのはここ一世紀半の間の話で、それがまた元に戻る(単独にならない)だけである。寧ろそちらの方が自然だ。毎度言っているように、人間は音が鳴った方を見る習性がある。人間に限らず、聴覚と視覚をもつ生物の多くに言える事だ。音が鳴っているのにそちらを見ても何もない(厳密にはスピーカーがあるんだが)なんて、不自然極まりない。

しかし、ただ、イヤフォン&ヘッドフォンという文化は少々感覚が違う。あれは、両耳の間、頭の中で鳴っているような感覚だ。強いて他の体験で近いものを挙げれば、夢を見ているのに近いかもしれない。夢を見ている最中にこれは夢だと認識できる事は稀であるとはいえ。

その感覚をすぐさま嗅ぎ取って歌詞にした歌が『For You』だった。『ヘッドフォンをして人混みの中に隠れるともう自分は消えてしまったんじゃないかと思うの』という冒頭の一節。社会の中での"位置"を失うデバイスとしてヘッドフォンが登場している訳だ。歌の主眼はそれを通して群衆の中の孤独感から…という話に繋げていく訳だが、ヘッドフォンが耳栓としての役割、即ち隔絶の象徴として機能している点にも注目してよいだろう。「今ここ」という現実から遊離して夢の世界、自分の内面世界に飛び込む為の"ひみつ道具"である。

こういう使い方をするのであれば、音声のみのコンテンツはまだまだ威力を発揮する。現実を見るのに疲れた人が目を閉じて内面と向き合う為の舞台装置、そう捉えてコンテンツを推し進めれば、音だけの世界もまた生き残れる。

これだけ手元に沢山毎時々々情報が流れ込んでくる日常において、目を閉じて内面と向き合う時間はそうそうない。以前だったら部屋に寝っ転がって天井や星空をぼーっと眺めながらなんとなく物思いに耽っていた時間も、今ではスマートフォンでタイムラインを追ったりYouTubeで次から次へと流れ込んでくるオススメ動画をダラダラと流したりして過ぎていく。内面も何もない。常に外部と繋がっているのだ。ヘッドフォンの作る隔絶という名の避難所に、たまには&久々に、飛び込んでみるのもいいかもしれないですよ。

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