無意識日記
宇多田光 word:i_
 



季節だ。ノーベル平和賞候補に日本国憲法第9条が上がっているらしい。誰が言い出したのかも知らないし根も葉もない噂かもしれないが、大変よい事である。

ノーベル平和賞が時に政治的意図を含んでいるように見える点について否定的な見方をする人も居るが、もしかしたらそれはノーベル賞がどういう賞かを理解していないのかもしれない。この賞は死者には授けられない。つまり、「あんた、凄い事やったな」だけの授賞ではなく、「あんた凄いよ、これからも頑張ったってぇや」という意味合いを込めて授ける賞なのだ。だからノーベル平和賞は「大変平和に貢献されました」だけでは不十分で、「これからもっと頑張って平和に貢献してくださいね」と選考委員会が期待するヤツに授ける訳である。

その期待に果たして憲法9条が応えていけるのかという議論は大いにするべきだ。もし授賞されたらより活発な議論が交わされていくだろう。

私は本来徹底的な改憲論者だ。ルールは守るべきものではなく、常によりよく変えていくべきだと考える。憲法とて例外ではない。不備があれば迅速かつ適切にバンバン変えていくべきである。

しかし、今の日本語圏の現状では、その、憲法を「よりよく変える」改憲案が滅多に見つからない。私は護憲だといってルールを教義的に無批判に受け入れる態度を原理的には拒絶するが、実務上、もし今ある改憲案と呼ばれている何かによって9条を変更すればとても「よりよく変わる」未来なんて見えない。確かに、護憲論者の思考停止はよくないが、中途半端に変えておぞましい現実を招来する位なら現状維持の方がいい。従って、今の状況で国民投票が行われれば私は改憲反対に投ずるだろう。本音では変えまくってやりたいのに皮肉なもんである。


だなんて言ってるが、政治には余り興味が無い。そんな事より今日は、日本人研究者3氏がノーベル物理学賞を受賞しためでたい日なのである。彼らの仕事は、確実に我々の未来に希望を与える。素晴らしいとしか言いようがない。

今回の3氏の受賞理由は青色LEDだ。社会的貢献度を考えると授賞が遅すぎる位だが、ノーベル物理学賞は社会的貢献度の他に、物理学自体への貢献度という基準もある。それらを加味した上で熟考の上授賞となったのだろう。勝手な推測だが。

それにしても、20世紀中には無理だと言われていた青色LEDを現実のものとした3氏の研究努力には頭が下がる。青という色の周波数の高さが難易度の原因かもしれないが、半導体の知識は殆ど持ち合わせていないので余計な事は言わないでおこう。

それにしても、青色LEDの輝きには不思議なものがある。今や至る所の信号機で使われているから毎日目にするようになったが、それまで我々が知っていた"青色の光"とは明らかに違う。もっとこう神妙で、冷めていて、しかし潤いと純粋さを併せ持ったあの輝きは、僕らに"青"という色そのものへの認識を改めるように促しているとさえ思う。


BLUEにおいて、ヒカルが『女の子に生まれたけど私の一番似合うのはこの色』と言ったときの、『ブルーになってみただけ』と歌う時のブルーは、青は、一体どの青なのか。空の青のように清々しいのか、海の青のように深いのか、或いはLEDのように冷たく鮮やかに輝いているのか。人によって異なるだろう。次回はそこら辺りに切り込んでみようと思う。

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This Is The Oneが"妥協の産物"だったかというのは意見が別れる所だろう。EXODUSが徹底して作り込まれた作品であっただけに、その"お手軽さ"はあまりらしくないようにもみえる。その前のヒカルの2作品(ULTRA BLUEとHEART STATION)が同じく厚みのある凝った意匠だっただけにTiTOは異色に映る。

制作期間という枷があったのは明らかだ。寧ろあのスピード感をHikaruが当時受け入れた事が驚きだ。HEART STATION制作時から既にミーティングを重ね、最終的ひ点線もほぼ同時リリースするなど正気の沙汰から程遠いスケジューリングだった。特に本づくりの編集長というのは常軌を逸していた。

実際、TiTOの本編は10曲40分足らずで、そのランニングタイムの短さもまた威圧感の無さに通じている。逆にいえば、もしこの路線を続けていればHikaruは"量産体制"に入れていたかもしれない。

ここは、判断が難しい。速く制作を完了出来るならそれに越した事はないが、消耗も相当である。このあと復帰したとして、体力を上回るペースでの活動、特にプロモーション活動とツアー生活については十二分に気をつける必要がある。

スピード感を前提とすれば、TiTOは妥協からは程遠い。他の凝った作品群だってそれぞれに締切はあった訳で、程度の問題といえばそれまでだが、Pop Musicが市場との相互作用を前提とした"ジャンル"である以上、リリース・ペースというのはそのアーティストの受け止められ方を決定付ける要素となる。

そういう意味において、EXODUSとTiTOはそれぞれ"別のアーティストによる作品"という言い方すら出来るだろう。勿論間に5年が空いている訳だが、その間に連続性を見いだす必要はなかった。最初っからTiTOの方法論で2作つくっていたらとか逆に2作ともEXODUSの路線で行ってたらどうなっていただろうかと後から考える事は出来るが、兎も角、TiTOの方が売れた=知られたのは事実なので、次にインターナショナルな作品を作る時はTiTO寄りの発想になるというのが自然な流れだ。順当、と言った方がいいかな。

この2作は、別々に考える必要があるし、同時に、対比として考える必要もある。どちらにせよ通常の1stアルバムと2ndアルバム、という感覚で捉えるのは難しい。もし将来両作が"再評価"される機会があればとも思ったがこうやって絶好の機会であった10周年を通り過ぎた事で選択肢が狭まったかな。また5年後を気長に待つとしますか。

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