無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前にインターネットが歌の歌詞の役割を侵食した話をしたが、それは受け手側の意識の問題である。当然、送り手側の意識も、インターネットとコンピュータの普及によって変化があった。

種々ある影響の中で、最も大きかったのが、直接的で、あからさまで、兎にも角にも身も蓋もないが、恐らく、人材を取られた事だ。60年代や70年代なら楽器をとって音楽を始めていたようなアーティスティックな感性や進取の気勢をもった人々が、現代では計算機の周りに集まって他の事をしている。00年代以降最も深刻な点は、新世代のメロディーを書けるソングライターが居ない事だ。これが本当に痛い。

それぞれの世代にそれなりの才能は集まっているし、時々により特色もある。しかし総じて弱い。

日本、という国の特殊性もあるかもしれない。文化的な貢献を果たす為に、家庭環境等になるべく左右されず、元手も要らず(というのは、例えばプロゴルファーになるとか医者になるとかフィギュアスケートで金メダルを獲るだとかには恐ろしくコストがかかるのね)、今すぐにでも始められる何かは、たぶん、いちばんは漫画家なんじゃないかと思われる。次に作家か。ここらへんが強いのは、ニーズが大きいからだ。音楽よりずっと大衆に消費されている。

現代的なのは、ゲームデザイナーやアニメーション&CGクリエーターとかか。他にも、消費となると心もとないがテレビでの露出は抜群のお笑い芸人やアイドル、役者や声優など、様々な娯楽消費文化があり、才能がそれらに分散されている。少子化もあるだろうが、取り敢えず学校に行ってオーソドックスな演奏や作曲をこなす人材は育っているが、彼らはあんまり"大衆文化"という感じはしない。我々には縁遠い。例えば、有名どころでは、今年上半期に話題になったゴーストライターさんみたいな人である。彼らはその気になれば大衆を魅了する事も出来るかもしれないが、その気になんかならないだろうな。別世界の人種である。


ヒカルは、こういった大衆文化の中で生きていく人材である。J-popというもうないも同然の文化の中において最後にして最大の人材だった。その彼女が今度復帰した時に、何も知らない10代の若い子たちが、この"前時代の恐竜"をどう思うのか
。まぁもし復帰が今年とか来年ならそこまでは行かないだろうが、再来年以降、6年以上となると小学校生活まるまる、或いは中高一貫全部の期間ヒカルが居なかった事になるのだから、様子は随分変わるだろうし、今はそうなった時の事を言っている。


大縄跳びのようだ。次またいつ飛び込むか。果たして呼吸は合うのか。リズムは合うのか。変な話だが、大衆の中のこどもたちは、恐らく、桁外れの才能が作詞作曲に打ち込んだ時に何が出てくるのかを知らないのだ。それを初めて耳にした時に、感動するのか、それ自体が古めかしいと感じるのか。ちょっと結構わからない。願わくば、そういったズレなくヒカルの歌が世代と時代を超えて通じ合ってくれればいいのだが、我々年寄りはその時に余計な事は言わずに静観してただこどもたちの言う事に耳を傾けるべきだろうかね。さぁ、どうなることやらですわ。

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虹色バスは、Keep Tryin'と異なり、最初っから他者を巻き込んでいく。『みんなを乗せて』『どこか行こうぜ』『負けないで 負けないで』と、こちらは本当に普通の応援歌としての歌詞が並ぶ。しかも、『Everybody feel the same』、皆同じに感じてる、と珍しく同調圧力をかけてくる。異色。あのテイク5の2曲あとにこんな歌が来るのか…

…と思っているのも束の間。最後にあの『誰もいない世界へ私を連れて行って』の一節が出てくる。この歌はつまり「皆同じように感じてる、誰もいない世界に行きたい、と。」という思想脈略を歌ったものだ。あれだけ「みんな」を連呼しながら着地点(地面というより天国な気もしますが)は虚無という、ある意味Keep Tryin'よりずっとえげつない曲である。

そうみると、テイク5とは異質どころか、全く同質の楽曲だとすら言えてくるのだからヒカルの書く詞がもたらす第一印象とその奥行きとの色違いぶりは甚だしい。実際、テイク5を虹色バスの後に聴けばそこは確かに「誰も居ない世界」なのだ。前も指摘したように、テイク5には"あなた"も"君"も出てこない。辛うじて、夜空と風だけが"私"を運んでくる。もはやここからあとは『空のように透き通って』自我を溶かすしかない。

そう考えると、虹色バスというのは銀河鉄道のようなものだ。イメージとしては、虹の架け橋を渡るファンタジックな絵が思い浮かぶが、実際は、宮沢賢治の方でも999の方でもいいけれど、茫漠とした暗い夜空に吸い込まれていくのに近い。虹色バスを降りてコートを脱いで中に入る、というような。銀河鉄道と違って途中下車したと言うべきか、終点まで辿り着いたというべきか、いずれにせよそこにあるのは人と交わった後の拒絶的孤独である。Keep Tryin'のお父さんやお母さんやお兄ちゃんや車掌さんやお嫁さんが虹色バス「みんな」であるとして、その各々がテイク5にてそれぞれの『中』に入っていく。他者と自己の物語は、一旦そこで終局を迎える訳だが、ヒカルの本当の本音はどこにあったのか、6年経った今でも未だによくわからない。

そういう時は、ぼくはくまを聴いて一旦あたまとこころをまくらさんにあずけてみますかね。『―くく くま まま くま くま―』 …そういうことなのかなぁやっぱ。となると次は嵐の女神なのかな~。次回どの歌の話になるのか、私にもわかりません。

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