無意識日記
宇多田光 word:i_
 



喫煙行為はかなり衰退したとはいえ、勿論合法的な行為な訳で喫煙者の皆さんはまだまだ沢山居てはる。変わったのは、空気の方だ。煙草を吸っていると白い目でみられる事が多くなった―と言うと頷いてしまいそうだが、確かに心境的にはそうなっているとはいえ実際に不快感を表情に出す人はそんなに居ない。不思議な事にいつのまにか、禁煙エリアが出来、広がり、喫煙者を押しのけていったのである。ふむ。

つまり、何が言いたいかというと、ゴシップ…というより、噂話と言ってしまった方がいいか、そういう営み自体を無くすのはかなり難しい。しかし、パワーバランスの中で「何となく居心地がよくない」感じを出していく事なら、可能かもしれない。

例えば、電車の中吊り広告。最近全く目を通していないので(毎日視界には入ってる筈なんだけれども)どの雑誌のものが健在なのかはわからないけれど、「こんな広告はちょっとなぁ」という空気が徐々に盛り上がっていけば、本当に無くなっていくかもしれない。例えば、新聞の週刊誌広告。いまでもあるのかな。もう新聞読まなくなって久しいから知らないけれど。これはちょっと、というものがあれば気軽に抗議すればよい。果たして彼らが、購読者をとるか広告料を払ってくれる方をとるかは、わからないが。

テレビのワイドショーはどうだろう。「あんな映像を流すなんて」と訴えればいい。フジテレビだと土曜の早朝に軽く受け流してくれる筈。あの番組まだやってるのかな。

いや実は、番組への抗議なんて痛くも痒くもないもんだ、放送局にとっては。攻め方を変えてみる。そのワイドショーをスポンサードしてる企業に抗議するのはどうか。「あんな愚劣な番組を支援してるなんて神経を疑う。提供を降りない限り貴社の製品は買わない。」とメールの一本でも入れてみる。放送局より遥かに効く筈である。こういう場合、怒りに任せた内容だとクレイマー認定されてしまうから出来るだけ冷静に、常識人として簡潔に告げた方がいい…

…だなんて書いてる私は、今書いた事をひとつもやる気がない。理由は単純で、元々ゴシップを消費して生きていないからだ。たった今週刊誌とワイドショーが絶滅しても全く困らない。宇多田ヒカル情報は本人と事務所とレコード会社が直接インターネットを介して教えてくれるのだから。他のアーティストも同様だ。突っ込んだインタビューとかは音楽雑誌で読めばいい。どの出版社も、週刊誌の売上に支えられて他の雑誌も刊行出来てますみたいな所はなかったと思うし、あったとしても一部だけだから生き残った他の雑誌を読めばよい。そもそももうテレビをそんなに見ないから、芸能人に興味がない。政治経済社会情勢ネタとかは個人ブロガーで十分だし…兎に角無くなっても一切困らないのだが、だからこそ「それを生業にしている人たちも居るし、何より表現の自由は最大限守られるべきだ」という普段のスタンスになる。要するに他人事なのだ。

しかし、霊柩車に立ちはだかったり犯罪者でもないのに(&警察官でもないのに)一週間尾行したりというのは表現の自由とは何の関係もない。ただの(軽)犯罪だろう。私ならその場で変質者発見と言って通報しただろうに、何故有名人はそこで我慢しなくてはいけないのか、よくわからない。

なんだろうな、これも煙草と同じか。本来なら、往来を行く際に手に火の付いた棒を持ち鼻と口から煙を吐きながら歩いていたら完全に危険人物だろうに、これが煙草なら許される。進路妨害やストーカー行為、都内なら迷惑防止条例に引っ掛かる行動も、マスコミだからと許されているのかな。変なの。やっぱりそれも空気の為せる業なのだろう。そこから変えていかなければならない。いやでも、私は何もしないんですがね相変わらず…。

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なるべく後ろ体重で書くようには心掛けているが、それでも案外、「しょうがない」という一言には「そんなことない」と思ってしまう。「彼らの仕事だから」と言うなら、その仕事を無くしてしまえばよい。今まで、様々なヒット商品がブームの終焉と共に視界から消え去っていった。その度に、関連する中小企業があっさりと潰れていった。仕事なんてふと無くなってしまうものなのだ。

一過性の流行なら兎も角、マス・コミュニケーションなんていう巨大なシステムがそうそう状況を変えるような事はない―というのは、確かにそうだろう。大変に難しい。しかしだからといって、「しょうがない」で終わらせるのは、どうなのか。局面々々では、そう思う事でやり過ごすしかない場合も、多々あるだろうけれど。

例えば。ひとつ例を挙げてみようか。私が小さい頃、「たばこ」というものが、ここまで変化するとは思わなかった。今や嫌煙権という概念は常識(変換も一発で出た)、分煙は当たり前、完全禁煙も珍しくないほどだが、ほんの30年前は全く逆だった。禁煙エリアはそれこそ今の喫煙エリア程度しかなく、大人はたばこを吸うのが当たり前で、灰皿は茶器よりも遥か多く方々に設置されていた。たばこの歴史は、マスコミのそれなんかよりずっと古い。伝統的な生活週間だった筈なのに、僅か2,30年でここまで状況が変わるとは、当時は思いもよらなかった。たばこ産業は国営だし、その"権力"は絶対不可侵と思える程であったのに。

たばこの状況がここまで変わった理由はわからない。外圧かもしれないし、医学的知見の進展のお陰かもしれない。それはわからない。しかしその巨大さは、マスコミにも劣らなかった筈である。それがここまで変容するのだから、マスコミもまた、某かの理由で変化を始める事があるかもしれない。例えばヒカルの一言が、その変化の最初の兆しとなるかもしれない。別に何をする必要もないが、だからこそ希望を捨てる必要もない。物騒な話だが、彼らの失職と転職を促せるチャンスは、全く無い訳ではないのである。そう思いたい。

とはいえ、その巨大さを侮ってはならない。全くの見込み違いは時に人を過剰に落ち込ませる。まずは、出来るだけ冷静に、物事のありようと推移を見守る事からだ。Hikaruもだから、落ち着いて。

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