無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルから新しいメッセージが届いた。ログを見ると、ここの所数件、悲しい内容が続いている。気がついてみたらそれで3年分だ。Twitterに救われているが、ちょっぴりやっぱり少しさみしい。

昔は「Message from Hikki」といえば、ネットに接続して真っ先に開くページだった。あんなにいつもワクワクしながら開いたページは他にない。いつもいつも、ここが物事の中心だった。PCを自分の部屋に導入した時、すかさず取り組んだのがメッセのローカル保存だった。携帯サイトだと1999年のとか読めなかったんだよね。ずっとブラウザのホームに設定してたし、昔は1日に何度も覗いた。「メッセは更新してないな」と最後に確認してから眠りに就いたものだった。その後で「いやもしかしたら続きがあるかもしれない」と枕元の携帯でもう一度確認してみたりしてね。早よ寝ろ。

そんなワクワクドキドキ、喜怒哀楽千変万化百花繚乱な感情を封じ込めた歴史あるページが、今こうやって、アーティスト活動休止、震災、母の死と重い話題から門戸を開いているのを見ると、本当に何とも言えない気分になる。


しかし、その重い色合いを除けば、今回のメッセージ【藤圭子を長年応援してくださった皆様へ】は、いつものように、いや今まで以上に美しい文章である。年輪さえ感じさせる。凝縮したワインみたいな。多くの人が「美しい」と感じたようだが私も同感だ。ここまで少ない文字数で多くの情報を封じ込められる技巧と知性はやはり桁外れだ。英語の発音の綺麗さがいつも取り上げられるヒカルだが、真に美しいのは、日本語か英語かに関わらずその語る文章の方である。若い人はそこをこそ見習って欲しい。簡潔にして要点は明解で奥行きと距離感があり視野が広く、緻密である。私は、この人に宇宙船の設計を任せたいとすら思った。御存知のように宇宙船は空間的な制約が大きく限られたスペースの中に如何に様々な機能を託せるかが伝統的な課題だが、ヒカルのこの、「少ない文字数とわかりやすい言葉で如何に多くの事を伝えるか」という能力の高さは、普遍性があり、極めて応用が効くだろう。日本語の代表者として昨今なら例えば村上春樹の名前が上げられたりするが、俺はもう宇
多田ヒカルでいいと思う。日本語における究極の作詞家なんだし。


このメッセだけで何回更新できるかわからないし、感銘を受けた所、切なくなった所、何より、未だ絶えそうもない光の根底に流れる悲しみがじわりじわりと伝わってくるが、今回はひとつだけ、最も印象に残った箇所を挙げておこう。

『出来る限り母の意向に沿うべく精一杯の弔いをしています。』

この文章を読んだ時、心の底から、「嗚呼、本当に精一杯なんだな。」と痛感した。生まれてこの方、ここまで心に響いた"精一杯"を私は知らない。この一言を言うまでの文章の流れ・構成が美しいからなのは間違いないのだが、それより何より、光が"本当に"精一杯であるという事実が先にあるから、こういう文章を書けるんだなと思った。この人は身を切って言葉に思いを託している。そんなに肩に力を入れる必要はないけれど、ここに紛いない真摯と誠実が存在している事を、皆には忘れないで欲しい。

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沈黙は金、とはよく言ったもので、結局こういう時はずっと黙っていられるのがいちばんだ。メディアが次の話題に飛びつくまで何のネタも提供しなければ、そのうち忘れ去られていく。公共の福祉に関する事でなければ、何を言うも何を言わないも自由だろう。

公共の福祉、という点で考えられるのは、日本全国に居る精神疾患の家族を抱えた皆さんに対する認知度等への影響だろうか。2002年の時、ヒカルの病名の公表によって、同じ病気似た症状に悩む人たちと彼らに対する関心がメディアで取り上げられるようになる、という社会的影響もあった。暫くは「あの宇多田ヒカルさんもこの病気で手術した」なんていうフレーズが散見された。ちょっとビッグネーム過ぎるのだ、ヒカルは。

「自殺で家族を失った人々」に対する関心もまた同様だろう。しかし、これらのケースはその状況自体を周囲にあまりアピールしない事も多い。暫くして空気が落ち着いても、なかなか11年前のようにはいかない。キーとなるのは結局、ヒカル自身がこの件に関して積極的に発言するかどうかにかかってくる。彼女の知名度を"利用"すれば、種々の問題に対する認知と理解がある程度は広がる事が期待される。多分、それ以上のスピードと規模で、誤解と偏見の方が広がるんだろうけれど、これは地道に淡々と進むしか道はない。


今回の件で特徴的なのは、ヒカルと照實さんの間で若干のテンションの違いが見受けられる事だ。ヒカルの方はハッキリと『精神の病』『母の病気』と表現しているが、照實さんの方は「心を病んでいるというよりも」と若干踏み込まないニュアンスで表現している。ここらへんが、この問題の難しさだ。つまり、そもそも問題設定自体が難しいのである。何が問題で何を解決すればいいか、というコンセンサスがなかなかとれないから対処が不十分になる、という側面がある。宇多田家がそうであったかどうかはわからないが、そういった認識の違いは世代の差かもわからないし、受けてきた教育の違いかもわからないし、男女の差かもわからないし、配偶者と子の違いかもわからない。まぁ、身も蓋もない事を言ってしまえばもう終わった事なので、今から言っても仕方がない。

仕方がなくない、とすれば先述のようにヒカルがこういった件に関して積極的に発信していった場合だ。それを今この時期に考えるのは不毛だが、ある意味そこで前に進む意義みたいなものを感じられるかもしれない。公共の福祉とは、結果として自分への力にもなるかもしれないものなのだから。とはいえ、今の取材報道体制では難しいかもしれないな。

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