今日は便利屋を呼んで古本や古い書棚を処分してもらいました。
自分の部屋は意外と広かったのだなと、きれいになった部屋を眺めて感慨に浸りました。
今後はこれを維持することに努めたいと思います。
話は変わって今日は勤労感謝の日。
奇妙な名前ですが、元々は新嘗祭。
新しい米の収穫を祝う日です。
欧米で言えば、Thanksgiving Day(感謝祭)ということになろうかと思います。
要するに農作物の収穫を祝う日です。
ちょうどわが国の新嘗祭と同様のお祭りですね。
それが戦後、なぜか勤労感謝の日になりました。
勤労というと、今では農家ではなく、サラリーマンを思い浮かべるようになってしまい、本来の意味からは外れることになります。
これはわが国の人々から伝統を重んじる態度を変化させる作用があると思います。
私はそれを望みません。
春季皇霊祭が春分の日に、秋季皇霊祭が秋分の日になり、紀元節が建国記念日になったのは、まぁ、理解できるとしても、最も解せないのが、明治節が文化の日になったことです。
明治天皇と文化とが直接結びつくことは無いと思います。
明治の日ではいけないのでしょうか。
旗日の名称と直接関係は無いのかもしれませんが、漢字を止めようという風潮も気色悪いものです。
鬱病はうつ病になり、障害者は障がい者になりました。
盲人は目の不自由な人になりました。
精神分裂病は統合失調症になり、躁鬱病は双極性障害になりました。
語感が差別的だという理由なんでしょうね。
どれも古い言葉のほうが、現実を正しく言い表していると思うのは、私が古いのでしょうか。
では見た目が麗しくない人は、顔が不自由な人とでも言うんでしょうか。
言葉は日々変化していくものと知ってはいますが、元々の言葉が廃れていくのは寂しいものです。
それに元々言葉というのは、あれとこれを分けるためのものです。
分ければ当然、いくばくかは差別的にならざるを得ません。
差別的だとしてある言葉を排除してしまっては、いずれ言葉は無くなるか、百科事典並みの分厚い差別用語辞典が生まれるでしょう。
それは馬鹿げたことです。
言葉が元々差別的だという事実を知れば、厳密な意味での差別語は存在し得なくなります。
あるいは全ての言葉が差別語になります。
現在差別語とされているあらゆる言葉を、マスコミや新聞に復活させてほしいと願っています。