通勤の車から、途中、何か所か桜並木や桜が植えられた公園の桜をぼんやりと見つめました。
満開を過ぎ、もう散り始めていました。
日本人は桜をこよなく愛し、桜の下で宴を催すのは、国民的行事とさえ言えます。
桜が咲くさまは、まるで狂気を帯びているかのような華やかなものです。
そして散り乱れるさまは、その狂気に輪をかけたような烈しさで、観る者を圧倒します。
咲き乱れる桜の森を歩くと気が狂う、と書いたのは坂口安吾でしたか。
名作「桜の森の満開の下」にみられます。
篠田正浩監督によって映画化もされました。
怖い物なしの山賊がなぜか満開の桜を恐れるのです。
山を歩く人々から金品を奪い、男は殺し、気に入った女は女房にする生活。
7人もの女房とわが世の春を謳歌していた男が、絶世の美女にして稀代の悪女を手に入れたとき、彼は悪女の毒と桜の瘴気に触れて、破滅への道を突き進むのです。
私はそこまで桜を怖れるものではありませんが、しかしやはり、桜には狂気を感じます。
そのような魔を潜めている桜にわがくにびとがこれほど魅かれるということは、仏教的無常観どころではない、ほとんど死に狂いとでもいったような観念に、とらわれているものと思われます。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。
と「葉隠」にあります。
それは象徴的な意味を持った、思想を表す言葉ではありますが、死に狂いという意味では桜を愛でるわが国民の心性にストレートに繋がっているものと思われます。
「万葉集」では、桜の歌は少なく、梅を詠んだ歌が多くみられます。
思うに死に親和性が高い武家が権力を握ったことが、桜への傾倒をうんだものと愚考します。
満開の桜の下でも、健全な精神を保ち続けられるだけの、強い精神力が求められます。
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