たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

切らせてはいけない最終ライン

2015-07-21 03:18:06 | Weblog
 どんなに心で理想を想っていても、現実的に叶わないことは沢山ある。気持ちが未来を創る、なんてキレイゴトに現を抜かしていると、痛い目をみるのは近い未来の自分だ。
 現実というのは、多くの場合、コントロールしえない大勢の他人を指す。自分の気持ちを伝えていくことで他人を動かせることは稀だ。

 自分の気持ちで他人を動かせたとしても、悩ましいことには変わりない。そもそも他人の価値観をより良く自分色に変えるということは、教育と洗脳の違いを明確にしておかなければ達成されない。教育と洗脳の狭間に説得という名の無難さが見え隠れしても、自分が動かせてしまえる時点で、その差は絶対的には感じることができないからだ。
 だからこそ、誘導できる能力がある人間ほど、悩む。ここまで変えてしまっていいのだろうか、ここまで行動して相手を変えても構わないのだろうか?と。

 つまり、誰かと一緒にいるということを、結局のところ自分色に染め上げようと変化を期待し、自分の価値観のほうが徳が高いと大義名分を掲げ、しかしあなたの持っている今現在の価値観も大切だ等と優しい言葉をかけることによって、成り立たせるならば、それは精巧なロボットと行動をともにしていることと変わらない。
 生命と非生命のアノマリーに着目することで生命特有の法則を追求し、かつ他人をある程度誘導できる者特有の悩みが、ここに存在するのだ。

 ていうことは、単純に勇気が無くて、私だけ試せないということですか?
 そうかも。君の状況を変えてしまうことも、現状を認知してしまうことも、俺は怖くて仕方ない。
 そこまで悩まなくても、、別にそこまで考えなくてもいいんじゃないですか?
 でも、自分の気持ちにウソをつくわけにもいかないし、悲しい真実に眼を背けるわけにもいかない。
 私自身は、別にただ私が悪いと思ってるから、構わないし。
 君はそう思ってないし、そう思う必要もないし、そう思いたくないほうが良い。

 俺がどうにかするから。。
 この問題に比べれば、他のどんな問題も今は至極どうでもいい。俺はこの問題を抱えているからこそ、他のどうでもいい問題に抜本的に対応できるのだ。

 それは、どんな犠牲をも顧みない、どんな不条理をも跳ね飛ばす、圧倒的な方法によって達成されうる。俺がそのスイッチを押すことに、怖がっているだけなのかもしれない。
 でも、勇気が無いことが必ずしも悪いことじゃないと思うし、俺がここまでかかるのは、ある意味では仕方ない。

 もし恨むのなら、この決定を俺にさせる運命を恨んでくれ。絶対に切らせてはいけない最終ラインを、俺はわかっているつもりだ。

 たとえ、その先にホンモノを掴むチャンスがゼロになるのだとしても、俺は俺自身と周囲が後悔しないであろう選択を、ただ冷酷にとる。それが俺の気持ち依存じゃなかったとしても、今の君のより良きをいっさい考えていなかったのだとしても。

 そう、、稀ではあるが、時として、誰にとってもneedでもwantでもないことを、しなくちゃいけないことだってあるのだ。
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