たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

無意識な憧れの行方

2015-07-20 02:56:36 | Weblog
 自分にとって完全に不要な対象を、気持ちの上で欲するものとして選び続けることなど、絶対にありえない。
 確かにneedとwantの違いにこそ生命と非生命のアノマリーが存在しているが、needがまったくのゼロで(少なくとも)とびっきりのwantになることなど、この世には存在しないと思うし、それは理想的には成り立つかもしれないが、相互作用を考えたときに現実的にありえないことだ。

 なぜなら、自分は相手にとって実質的にいっさい役立たないと思いながら一緒にいることは、相手のことを考えまくった気持ち依存であればあるほどできなくなっていくし、自分と一緒にいる時間が相手にとって申し訳ないと思ってしまえば、互いに決別を選ばざるを得なくなってゆくからだ。
 それは相手が、いくら、ただ一緒にいたいだけだ、と主張したとしても、成り立たない。もちろん、自らの存在を唯一物質的な価値観と見做すことで快楽を得ようとする女々しい感情が一過性の価値観として成り立たせることはありえるが、幾何学的な美に唯一依存してしまえば、遅かれ早かれ崩れ去ることは明確である。

 つまり、時間依存性の無い関係性をホンモノだと定義したとき、実質的な能力として圧倒的な非対等性を有する関係は、お互いが強く欲し合っていたとしても、一過性に終わってしまう、所詮ニセモノなのだ。

 結局のところ、だから、私だけ試さなくても良いわけ?
 欲しているからこそ、俺の予測に反したことを言ってほしいんですよ。
 それならやっぱり、能力が無いと見做されている私は必要ないでしょ?
 確かに今は。でも未来にはきっと必要になりますし、それ以上に俺が一緒にいたいんですよ。
 どうして未来に必要になるって言い切れるの?そんなことわからないじゃん?
 俺が望んでるってことは、即ち未来には俺にとって貴女が絶対的に必要になるってことです。

 未来の中に実質的な必要を無意識的に超越論的に見出すとき、ヒトは現在明らかに自分にとって不要なものを欲するのではないだろうか?それは、自分の気持ちに忠実になるという自分勝手な範疇を超えて、気持ちが未来を創る、という圧倒的な物理法則が定めていることなのだと俺は思う。
 そして、気持ちが未来を創る、ということに忠実に注目して相手のより良きを考え続ければ、必ずホンモノを感じ、手にし、一生離さずに過ごせるのかもしれない。

 だから、不器用すぎて成功しても、器用すぎて失敗しても、器用すぎて成功しても、不器用すぎて失敗しても、それらの比較対象としての関係性が、お互いの未来に一歩でも楽しさが続くことを包括できれば、それでいいのだと思う。
 たとえ、そのせいで、離ればなれになってしまったのだとしても。。

【ラーメンズ】 器用で不器用な男と不器用で器用な男の話 【高画質】
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