たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

19:24

2015-07-12 08:24:36 | Weblog
 インターネットが新たな戦場の場になりつつある。
 政治的に無念な思いをしたときに、一昔前は本を出版するしか術が無く、それすらも後に成功した者だけが許される特権だった。しかし、今は違う。誰でも簡単に文章を書くことができ、完全に社会的に負けた者でも、全世界に自らの想いを自由に公開することが可能となった。

 昨年の理化学研究所の問題でも、当初はインターネット上だけで、捏造ではないか?と言われていた。
 これは実は、社会的に負けた、もしくはその一歩手前の状態の、論理性の高い負け犬が非常に多いことを物語っている。まぁ、論文を読める状態の人間じゃないと不正に完全に気がつくことはできないから、ニートと同じ生活を送る大学院生や他人のアラを探そうと躍起になってる研究者が、大量にいる、ってのが相場だと思うけどね。
 つまり、論理性がそれなりに高い社会的敗者たちが、へーこらしているだけで科学に対する興味や信念が何もない権威主義の社会的強者に対して、ネットという新たな戦場で謀反を起こし、文字通り死に至らしめた事件だとも言える。

 もし、あなたが社会的に成功したいのであれば、いかにして、何も考えていないバカどもを味方につけるかを考えればよい。民主主義によって、めちゃくちゃ考究して信念を持って提出した一票も、バカがてきとーに提出した一票も、対等なのだから。
 だからこそ、この世の中は大方、忠義の心を持つものは能力がいっさい無く、能力を向上させる意志を持った者は忠誠心のかけらもないのだ。

 成功したいだけの人間が上層部にい続けようとする限り、「国家」ではなく「権威」と「資本」を相手取った、ネット上から誘発される第三次世界大戦を未然に防ぐことは難しいかもしれない。

 そして、なかなか難しいのは、本当は信念を持っていたのだとしても、「大勢からの評価」という鎖に一度ハマってしまえば抜け出すことは難しくなる。生きるために誘拐犯に恋してしまう被害者の心理と構造上は同値だ。
 くだらない「分野」や「知識」に落とし込み、そこでのレゾンデートルをなぁなぁな人間関係のなかで語ることしか能の無い人間が社会的に成功している一方で、信念を持ち続けてしまうと成功しにくい社会的仕組みになっている根幹の原因は、民主主義と資本主義の限界にあるのだ。そして、その不条理に異議申し立てることができ、場合によっては、社会的に(も実質的にも)人を抹殺することすらできてしまうインターネットというものは、新たな大量破壊兵器なのかもしれない。本当に、情報は即ちエネルギーなのだ。

 そう、みんな、世間体や評価を気にしすぎる、それらがどんなバカからの戯言であっても。

 そんなことよりも、何の不自由もなく文章を公開できることの喜びを、もっともっと味わおうじゃないか。
 どの研究室にいるか、どの指導教員か、どんな分野でどういう風に勉強してきたか、など一切関係ないオールフリー状態のこのインターネットの場で、あなたのとびっきりの考えや気持ちを、全世界に向けて公開することができる。今こそ、なんの柵も無い状態で、「生命とは何か?」「万物の理論は構築されうるのか?」「宇宙はどうなっているのか?」「研究社会をよりよくするためにはどうすればいいのか?」等の様々な重大な中二病的問題について、自分固有の考えや気持ちを、思い切ってそれぞれのブログで書いてみろよ。ブログには何の査読も何の柵もないんだぜ?
 それが現実的にできないのは、「恥ずかしいから」と世間体を気にする無難さを大義名分にすることで、お仕着せがましい制度に自らが依存し続けることを肯定化し、だから他人任せになっており、自分で自己実現することを諦めきっているからだ。

 確かに、他人からの評価のすべてを捨て去ってしまい、自分の軸で生きることには不安が伴う。しかし、世にいう金持ちや権力者が本質的に成功し、本当の意味での聖人君子になることよりも、ラクダが針の目を通り抜ける方が簡単である。

 だとしたら、バカな文章を書くようなマネはしなくとも、きちんと目覚めて、自分が思う、より良い新たな価値観を訴えていくべきだ。そうすれば、ネットは戦場ではなく、理想的な場所になりうるのかもしれないね。
コメント
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