自分がいなくなったら、すぐに元に戻ってしまうような状況の変え方じゃ、より良い状態にする意味なんて無い。
逐次的に系をより良く変えるんじゃなくって、自発的に優しさに包まれるように仕組まなきゃいけなくて、それは物性を使って単なるヤラセで自己組織化を構築するだけでなく、(スケールに対して)割と長い時間、ちゃんと情報をフィードバックさせる系である生命を創る、に似ていると思う。
情報を介在させない単なる物理現象を超えるようなモノを仕組むにはヤラセが必要で、それには方向性が担保されている。そして、ヤラセの方向性を決めるのは価値観だ。
だから、こう変えなきゃいけないよね、こうしていかないとダメだよね、っと引っ張る力は、そうしたほうが楽しい、みんなにとって純粋な気持ちが保存される、などの、希望に満ちていないといけないと想う。
そうした時に必要になってくるのは、教育的な側面だと思う。
よーするに、自分ができることを相手にできるようになることを要求するってことだ。そうしていけば、集団もそれによって能力が付けられるし、俺がいなくなった後も自分がいたことが意味を持ってくるし、さらに俺自身も、その場所から勉強させてもらえる。
価値観と、集団を変えるだけの引っ張る力量、すべてを持ってして、その集団をより良くさせなきゃいけないし、それが(俺がいなくても)自発的にできるような系の構築をしないなら、「生命を創り、理解する」っということにならないと思う。
でも、この方法には、決定的な問題点がある。
それは、俺はいずれ、この環境から出ていきます、いずれは、あなたとの関係性を終焉にさせる気でいます、っというアピールに他ならない受け取られ方をしてしまう、ということだ。この集団での「先」が想像できないから、あなたとの未来を見つめてはいないから、だから、自分が持っている能力くらいはあなたには是非付けて欲しい、っという感情が含まれてしまう。
その能力が、集団形成の秩序化を決めているようなパラメータに優位に寄与していればいるほど、それは顕著に現れてしまう。
だから、本質的に誰かを助けたい、問題を解決させてあげたい、っと心から想ったとして、それを口にし、具体的な方針が慧眼さの中からでてきたとしても、「変わりたくはない。その新しい能力をつけるために努力するなんてイヤで、ありのままの私を受け入れて欲しい。頭でわかっていても、どうにもならないことってあるでしょ?」。
それに対して俺は『精神的に向上心が無い者はバカだ。大抵の場合、どうにもならないのは、思考力が足りずに正解がきちんと出てないせーで、頭を使うことをもっと信じてもイイと思う。本当の能力をつけようとしないなんて、、そんなヤツとは最初っから一緒にいたくないもん。』
カワラナイデの真意は、「『いつかさよならするから』って宣言しないで」に等しい。
気持ちが一緒なら、即物的な能力に差があろうが同一であろうが、そんなことは、本当のホントはどうでもいいじゃん、って想っているのが、裏目にでている?
確かに現実を観なくちゃいけなくて、これが理想ではあるんだけど、、俺は、それ以上に、即物的にでもお互いに差があることそのものに不安を感じてしまうし、そのせいで今、この関係性が失われてしまうことを恐れているんだと思う。
それが増幅していく。俺が理解してもいないことを相手は(きっと)理解しマスターしている。そんな気持ちがenhanceされれば、なぜ相手は、そういう風に感じとって俺が得意な部分の能力をつけようとはしないのか、そこに目を向けたり、ほんのちょっとすら価値観を理解しようとすらしない、ってことは、気持ちが同じじゃないからかな、ってまた不安になってしまって。。
ヤラセは、こういうところで、実は、ホンモノかどうかを測っているのかもしれない。
現実を誤魔化しながらでも、お互いの気持ちを誤魔化さないでいられるか?『いつまでも一緒にいたいし、常に永遠を感じていたい』という本当の気持ちに、どれだけ素直になれるのか?ってね。
きっと、本来持っている自分の能力や資質を、少しだけ卑下しながら相手とインタラクションをとって、相手の価値(勝ち)を仕組ませながら、こちらの価値観を伝えていくんなら、イイんだと想う。
こういう方向性でやらせたい!、っと、みんなに対して想うことそのものだって生命現象なんだから、実は、純粋なヤラセっというものは、むしろ存在しないのだ。
今、特に想っているのは、、お互いにまったく新しい能力や価値観を、お互いにつけあっていけるなら、そっちのがホンモノをホンモノだって感じとりやすいし、系が秩序化のなかで保存されることを超える何か(≒ホンモノ)なのかも。
また、現実から目を背けている気もするけど笑、もう少しだけ、もうちょっとだけ、許してくださいね。
逐次的に系をより良く変えるんじゃなくって、自発的に優しさに包まれるように仕組まなきゃいけなくて、それは物性を使って単なるヤラセで自己組織化を構築するだけでなく、(スケールに対して)割と長い時間、ちゃんと情報をフィードバックさせる系である生命を創る、に似ていると思う。
情報を介在させない単なる物理現象を超えるようなモノを仕組むにはヤラセが必要で、それには方向性が担保されている。そして、ヤラセの方向性を決めるのは価値観だ。
だから、こう変えなきゃいけないよね、こうしていかないとダメだよね、っと引っ張る力は、そうしたほうが楽しい、みんなにとって純粋な気持ちが保存される、などの、希望に満ちていないといけないと想う。
そうした時に必要になってくるのは、教育的な側面だと思う。
よーするに、自分ができることを相手にできるようになることを要求するってことだ。そうしていけば、集団もそれによって能力が付けられるし、俺がいなくなった後も自分がいたことが意味を持ってくるし、さらに俺自身も、その場所から勉強させてもらえる。
価値観と、集団を変えるだけの引っ張る力量、すべてを持ってして、その集団をより良くさせなきゃいけないし、それが(俺がいなくても)自発的にできるような系の構築をしないなら、「生命を創り、理解する」っということにならないと思う。
でも、この方法には、決定的な問題点がある。
それは、俺はいずれ、この環境から出ていきます、いずれは、あなたとの関係性を終焉にさせる気でいます、っというアピールに他ならない受け取られ方をしてしまう、ということだ。この集団での「先」が想像できないから、あなたとの未来を見つめてはいないから、だから、自分が持っている能力くらいはあなたには是非付けて欲しい、っという感情が含まれてしまう。
その能力が、集団形成の秩序化を決めているようなパラメータに優位に寄与していればいるほど、それは顕著に現れてしまう。
だから、本質的に誰かを助けたい、問題を解決させてあげたい、っと心から想ったとして、それを口にし、具体的な方針が慧眼さの中からでてきたとしても、「変わりたくはない。その新しい能力をつけるために努力するなんてイヤで、ありのままの私を受け入れて欲しい。頭でわかっていても、どうにもならないことってあるでしょ?」。
それに対して俺は『精神的に向上心が無い者はバカだ。大抵の場合、どうにもならないのは、思考力が足りずに正解がきちんと出てないせーで、頭を使うことをもっと信じてもイイと思う。本当の能力をつけようとしないなんて、、そんなヤツとは最初っから一緒にいたくないもん。』
カワラナイデの真意は、「『いつかさよならするから』って宣言しないで」に等しい。
気持ちが一緒なら、即物的な能力に差があろうが同一であろうが、そんなことは、本当のホントはどうでもいいじゃん、って想っているのが、裏目にでている?
確かに現実を観なくちゃいけなくて、これが理想ではあるんだけど、、俺は、それ以上に、即物的にでもお互いに差があることそのものに不安を感じてしまうし、そのせいで今、この関係性が失われてしまうことを恐れているんだと思う。
それが増幅していく。俺が理解してもいないことを相手は(きっと)理解しマスターしている。そんな気持ちがenhanceされれば、なぜ相手は、そういう風に感じとって俺が得意な部分の能力をつけようとはしないのか、そこに目を向けたり、ほんのちょっとすら価値観を理解しようとすらしない、ってことは、気持ちが同じじゃないからかな、ってまた不安になってしまって。。
ヤラセは、こういうところで、実は、ホンモノかどうかを測っているのかもしれない。
現実を誤魔化しながらでも、お互いの気持ちを誤魔化さないでいられるか?『いつまでも一緒にいたいし、常に永遠を感じていたい』という本当の気持ちに、どれだけ素直になれるのか?ってね。
きっと、本来持っている自分の能力や資質を、少しだけ卑下しながら相手とインタラクションをとって、相手の価値(勝ち)を仕組ませながら、こちらの価値観を伝えていくんなら、イイんだと想う。
こういう方向性でやらせたい!、っと、みんなに対して想うことそのものだって生命現象なんだから、実は、純粋なヤラセっというものは、むしろ存在しないのだ。
今、特に想っているのは、、お互いにまったく新しい能力や価値観を、お互いにつけあっていけるなら、そっちのがホンモノをホンモノだって感じとりやすいし、系が秩序化のなかで保存されることを超える何か(≒ホンモノ)なのかも。
また、現実から目を背けている気もするけど笑、もう少しだけ、もうちょっとだけ、許してくださいね。