こんなもんでいっか、っと、手を打とうとしてしまう自分に選択の直前で気がつく。
手を引っ込めた直後に、そのまま幻想の世界へと逃げ込んでいけたら良かったかも、って後悔したりして、誤魔化し続けられる他人が羨ましくなったりして。
この世の中は、誤魔化しに誤魔化しを重ねていくだけのことで溢れている。
一番そうであってはいけないはずの「自然科学の研究」だって、ただ都合がいいだけの誤魔化し方を、「良い書き方、素晴らしい伝え方」だとして良いモノとして教授されるし、教育機関だって教員側のディフェンスしか考えずに学生に責任を押し付けることが正当化される。
ホンモノは、ロマンティックは、こんなにも少ない。
それが大切な領域ですら、こんなにも少ないのだ。
純粋な感情を残しながら、基礎から着実に積み上げていくことを、すべての分野で忘れてしまっている。
基本的な教科書を理解しない限り、積上げの分野(たとえば理数系科目のすべて)についての本質的な理解などありえないのに。本当の実力を持つ者、もしくは本当の実力を持とうとする者の、少数精鋭で、この世界の進捗は成り立っている。
たいていは、それにあらがって、搾取して、その銅鉄研究をして、無駄なコミュ力を発揮して、てめーの存在を肯定してるに過ぎない。くだらない物理現象。
そんな中で、唯一、手を打ってはいけないモノ。誰もが願っていること。
それにすら、多くの人が、手を打とうとする。平均場の中から選ぶことが素晴らしいと諭すかのように、即物的な価値観の一致で選んだり、何かのステータスで選んだり。それがなくなると、期待できなくなると、ポイ。
「気持ちを大切にする」なんて、幼すぎて、笑っちゃうくらい?俺としては、そんな「大人」の定義にウンザリしてきて、笑いたいくらい。
不当に言葉を得たにも拘らず、その言葉を得るまでに本当は必要だったことを、戻って努力しようともしないなんて、ダメだろ。手を打ってきたことに対して、イイとこどりするんじゃねーよ。…って誰かに対して思う一方で、自分自身も、ほんの少し前の履歴を忘れて、今が当たり前だと思っていることに気がつく。
逃げて逃げて、やっと辿りついた、安住の場所に限りなく近い、今の自分の状況と立場を、今一度、有難がる必要がある。
一方で、周囲の絶対的な優しさを感じることも多い。それは、特定の誰かから実質的にも精神的にも多大に、っという風にも感じているし、みんなという平均場から少しずつ感じることもある。
でも今俺は、何を、どこを、誰を、どういう風に許容していけばいいのか、判断がつかない状態なのかも。
ただ、手を打ってはいけない、って強く自分に対して思う時間帯が増えているのは、何かの変化の兆しとしては、良いこと、だよね??
今、少しだけ、孤独でいたい気持ちは、集団を感じていたいところに起因している。
だって、孤独を一番感じるのは、2人以上の何かの集団にいるときだから。
手を引っ込めた直後に、そのまま幻想の世界へと逃げ込んでいけたら良かったかも、って後悔したりして、誤魔化し続けられる他人が羨ましくなったりして。
この世の中は、誤魔化しに誤魔化しを重ねていくだけのことで溢れている。
一番そうであってはいけないはずの「自然科学の研究」だって、ただ都合がいいだけの誤魔化し方を、「良い書き方、素晴らしい伝え方」だとして良いモノとして教授されるし、教育機関だって教員側のディフェンスしか考えずに学生に責任を押し付けることが正当化される。
ホンモノは、ロマンティックは、こんなにも少ない。
それが大切な領域ですら、こんなにも少ないのだ。
純粋な感情を残しながら、基礎から着実に積み上げていくことを、すべての分野で忘れてしまっている。
基本的な教科書を理解しない限り、積上げの分野(たとえば理数系科目のすべて)についての本質的な理解などありえないのに。本当の実力を持つ者、もしくは本当の実力を持とうとする者の、少数精鋭で、この世界の進捗は成り立っている。
たいていは、それにあらがって、搾取して、その銅鉄研究をして、無駄なコミュ力を発揮して、てめーの存在を肯定してるに過ぎない。くだらない物理現象。
そんな中で、唯一、手を打ってはいけないモノ。誰もが願っていること。
それにすら、多くの人が、手を打とうとする。平均場の中から選ぶことが素晴らしいと諭すかのように、即物的な価値観の一致で選んだり、何かのステータスで選んだり。それがなくなると、期待できなくなると、ポイ。
「気持ちを大切にする」なんて、幼すぎて、笑っちゃうくらい?俺としては、そんな「大人」の定義にウンザリしてきて、笑いたいくらい。
不当に言葉を得たにも拘らず、その言葉を得るまでに本当は必要だったことを、戻って努力しようともしないなんて、ダメだろ。手を打ってきたことに対して、イイとこどりするんじゃねーよ。…って誰かに対して思う一方で、自分自身も、ほんの少し前の履歴を忘れて、今が当たり前だと思っていることに気がつく。
逃げて逃げて、やっと辿りついた、安住の場所に限りなく近い、今の自分の状況と立場を、今一度、有難がる必要がある。
一方で、周囲の絶対的な優しさを感じることも多い。それは、特定の誰かから実質的にも精神的にも多大に、っという風にも感じているし、みんなという平均場から少しずつ感じることもある。
でも今俺は、何を、どこを、誰を、どういう風に許容していけばいいのか、判断がつかない状態なのかも。
ただ、手を打ってはいけない、って強く自分に対して思う時間帯が増えているのは、何かの変化の兆しとしては、良いこと、だよね??
今、少しだけ、孤独でいたい気持ちは、集団を感じていたいところに起因している。
だって、孤独を一番感じるのは、2人以上の何かの集団にいるときだから。