好きなことで何かを達成するためには、気持ちを上手く使いながら、頭で規制しなくちゃいけない。
みんなでやりたい!、っという純粋な気持ちだけでなく、ただ好きなことを好きなようにしていたい、っという気持ちも、すべてを満足させられるように考えて動けなくちゃね。
何かを我慢したり、即物的な部分で勝たせてあげたり、負けてあげたり、逆にとことん負かすことだって、常に、誰かのためにやらないのだったら無意味。
こういうことを無難さや即物的な優位性を捨ててまで、それでも誰かのためだからって、し続けていて、それが全然効力を発揮していないことを知っちゃったりすると、なんだか急にバカみたいになってきちゃって、じゃぁ、なんのために存在しているんだろ?って考えちゃったりする。
仲間が大事、みんなで夢を目指そう、ってところから(少なくとも俺自身は常に)スタートしているはずなのに、現実を見ろ、って言われたり、無難な行動をとるべき、って諭されそうになったり、自分の方がすごいんだ、高いんだ!、ってアピールされたり、考えもしないで「わからない」ってみんなで言って、閉じた空間のなかでぬくぬくとしていましょう、って強要されたりすると、私はいま何をしてるんだろう?、っという気分になってくる。
チームのなかで、誰が上とか下とか、重要な寄与をしてるのが誰とか、本当にどうでも良いことのはずなのに、みんな、よっぽど自信が無いんだなって思う。
敵は、残酷な物理現象なのに。。
実質的にも精神的にも期待している仲間に対して、こういう風に想いたくは無いから、だからこそ、自由に、完全に俺の好きに、好きなことをする時間の必要性が高まってくる。
そのときの気分で好きな分野を好きなだけ、好きなように勉強する。好きなところまでしか計算や論理を追わないし、好きなことしか追究しない。飽きたらほっぽる。
好きなところしか演奏しない、好きな曲しか扱わないで、一人で好きに音楽を楽しむ。自分にとって不快などうでもいいアウトロは聞かない!とかね。
この、「好きなことを好きにやる」時間を大切にすることを、最近(っといってもかなり長いスパンの「最近」)、忘れていた気がする。
今まで俺は、こうやって、能力を得てきた。どうでもいい能力、、この能力によって、他人が、大切な誰かが、バカげた行動をとるんだったら、そんな能力、どっかに消えてしまえばイイのに。
こうしなきゃいけないんだ!、っという、何かの分野への純粋さが、ときに進捗を即物的なモノにしてしまう。そんなときに、夢を現実から解離させることで、解決したかのようにヤラセるのはダメだ。夢は現実逃避とイコールではまったくないのだから。
歩みは遅くとも本質的でありたい。みんなで楽しく、しかも一人ひとりが楽しんで好きなことで何かを達成することは、原理的に可能だ。だから、ちょっとだけラフになってみて、フワっとする時間が必要なんだと想う。そうすれば、もっと、我慢できるでしょ?
いじり、いじられて、愛情を確認していたはずが、ある瞬間に突然マジに変わってしまう相転移を、もう誰とも共有したくない。それは、どんなに永遠を信じられるコミュニティであったとしても、ゆくゆくの崩壊に寄与してしまう。
同じ失敗は、繰り返さない。
みんなでやりたい!、っという純粋な気持ちだけでなく、ただ好きなことを好きなようにしていたい、っという気持ちも、すべてを満足させられるように考えて動けなくちゃね。
何かを我慢したり、即物的な部分で勝たせてあげたり、負けてあげたり、逆にとことん負かすことだって、常に、誰かのためにやらないのだったら無意味。
こういうことを無難さや即物的な優位性を捨ててまで、それでも誰かのためだからって、し続けていて、それが全然効力を発揮していないことを知っちゃったりすると、なんだか急にバカみたいになってきちゃって、じゃぁ、なんのために存在しているんだろ?って考えちゃったりする。
仲間が大事、みんなで夢を目指そう、ってところから(少なくとも俺自身は常に)スタートしているはずなのに、現実を見ろ、って言われたり、無難な行動をとるべき、って諭されそうになったり、自分の方がすごいんだ、高いんだ!、ってアピールされたり、考えもしないで「わからない」ってみんなで言って、閉じた空間のなかでぬくぬくとしていましょう、って強要されたりすると、私はいま何をしてるんだろう?、っという気分になってくる。
チームのなかで、誰が上とか下とか、重要な寄与をしてるのが誰とか、本当にどうでも良いことのはずなのに、みんな、よっぽど自信が無いんだなって思う。
敵は、残酷な物理現象なのに。。
実質的にも精神的にも期待している仲間に対して、こういう風に想いたくは無いから、だからこそ、自由に、完全に俺の好きに、好きなことをする時間の必要性が高まってくる。
そのときの気分で好きな分野を好きなだけ、好きなように勉強する。好きなところまでしか計算や論理を追わないし、好きなことしか追究しない。飽きたらほっぽる。
好きなところしか演奏しない、好きな曲しか扱わないで、一人で好きに音楽を楽しむ。自分にとって不快などうでもいいアウトロは聞かない!とかね。
この、「好きなことを好きにやる」時間を大切にすることを、最近(っといってもかなり長いスパンの「最近」)、忘れていた気がする。
今まで俺は、こうやって、能力を得てきた。どうでもいい能力、、この能力によって、他人が、大切な誰かが、バカげた行動をとるんだったら、そんな能力、どっかに消えてしまえばイイのに。
こうしなきゃいけないんだ!、っという、何かの分野への純粋さが、ときに進捗を即物的なモノにしてしまう。そんなときに、夢を現実から解離させることで、解決したかのようにヤラセるのはダメだ。夢は現実逃避とイコールではまったくないのだから。
歩みは遅くとも本質的でありたい。みんなで楽しく、しかも一人ひとりが楽しんで好きなことで何かを達成することは、原理的に可能だ。だから、ちょっとだけラフになってみて、フワっとする時間が必要なんだと想う。そうすれば、もっと、我慢できるでしょ?
いじり、いじられて、愛情を確認していたはずが、ある瞬間に突然マジに変わってしまう相転移を、もう誰とも共有したくない。それは、どんなに永遠を信じられるコミュニティであったとしても、ゆくゆくの崩壊に寄与してしまう。
同じ失敗は、繰り返さない。