たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

冷酷さの使い方

2013-04-30 01:43:44 | Weblog
 自然科学を扱うなら、相手に嫌われても正しいことを言えるだけの勇気を持っていることが大事だと思う。

 それが相手にとって痛い現実であったとしても、自然現象は待ってはくれないから、正しさだけを伝える必要がある場があるのだ。空気や習慣や分野に騙されず、はっきりと正しいことを言ったら、空気がきちんと変わっていって、よりみんな本音で喋らなきゃいけない戦場に駆り出される。
 っま、こういうことに対して、延々と大義名分を話すことでディフェンスした気になってるような、くだらないスタイルを持っている人も中にはいるけど、たいていの日本語がきちんと通じる人には、効果的な手段だと思う。

 冷酷に正しさだけを追い求めるモードと感情を考慮したモードと、2状態持ってるとイイと思うんだよね。
 俺は、自分と相手の気分と場(時間帯)で、このモードをテキトウに変えるから、冷酷な正しさの提出の裏側を読むことができるほどの賢さが無い人とは、いっさい付き合わないです、って宣言してるようなもんだよな。

 誤魔化しを排除するくらいの、まっすぐな論理性を持ってすれば、誰だってボロが出る。そういう瞬間、どういう飛び方をするかで、今後付き合っていくか決めることができる。これも、手っ取り早い、コスパーのイイ手段。
 それと同時に、相手の気持ちを考慮しながらの、できることのなかでの論理性を高めていけば、あとは気持ちさえ共鳴すれば、正しく信頼関係を得ていくことができるんだと思う。

 気をつけなきゃいけないのは、感情内で記述される目的を、見失った論理的思考にならないようにしないとね。
 気持ちを無視した冷酷さほど、虚しいもんはない。(前によく書いていたことだけど、)冷酷だったり、論理性でいっぱいになるっていうのは、気持ちを一つに集約していく行為とイコールになってるはず。

 ブレた気持ちで、冷酷を使っちゃダメダメ。まっすぐな気持ちなら、冷酷さに価値がある。
 これが守れないなら、結局、冷酷になることで損するような結果になってしまうのだと思う。

ミラクルタイプ 株価女


ミラクルタイプ マネーゲーム男


(しっかしIT系が典型的なエリートって懐かしい。俺が中高生の頃と今はだいぶ変わったんだなーっと思います。)
コメント
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