エントロピーという熱力学函数について、「乱雑さ」という間違った解釈をそのままに、きちんと考えようとする理系があまりにも少ないことは問題なんだけど、この現象については、いろんな意味で、勉強させられる。
たとえば俺が、『ごめんね、っていうかさ、そもそもエントロピーって何??俺の知ってるエントロピーとは違うエントロピーで議論してるように聞こえるんだけど?』って言うと、みんな素直に「え?高橋さんはどう考えてるんですか?」って言ってくれるんだけど(笑)、俺とまったく同じことを高校生や大学初年次の子が言うことってあると思うんだよね。
そういうときに、俺が言った言葉と同様の価値を感じて、その子にきちんと説明しようと想えるかな?
「誰が言ったか?」ではなく、きちんと、「何を言ったか?」だけで判断できますか?って考えた時に、なかなか難しい。ちゃんと理解しよう、本当の意味で、人は対等に扱おう、平等主義、っと掲げるんだったら、簡単にできなきゃだけどさ。
コツコツお勉強だけをこなしていると、自分にとって絶対的な誰かが満足するまで、理解すればイイや、っとなってしまうことが多い。だとすると、エントロピーについて「乱雑さ」程度の理解で満足してしまうような人が、大学の教員のなかでも多いから、それでオッケーって多くの人が思ってしまって、他のことでもそんなんだから、後輩や自分の生徒に対して、横柄な態度で、上から押し付けるような環境になっていってしまうのかもしれない。
本当は、ある目的を達成しようと努力する過程で、仕方なく必要になってしまったから、ある知識をきちんと理解しなきゃだね、ってなる、そういう順番なのに、あの人を満足させるために、って日々実験したりお勉強したりすることほど、本末転倒なことはないんじゃないかな。
だから、敵は自然現象なんだってば。
俺が、それ以前に呆れかえるほど繰り返していた、ただの「真面目」。そうではなく、本当の意味で、自然現象をきちんと理解したい、論理性を高めたい、っと思った俺のきっかけは、ココには書けないけど(日常ではよく言ってることだけどね)、確実に存在している。
「真面目」は、「面」と「目」の間にレ点をつけて、「真」っ直ぐな「目」をした「面(ツラ)」をすることだ。真っ直ぐな瞳をもった表情をする演技なんて簡単だ。そうじゃなくって、自らの論理性がそこに内在していなきゃいけないし、もっといえば、何に応用するための論理性なのか?ということを心に飲み込まなきゃいけないと思う。
「誰が言ったか?」ではなく「何を言ったか?」、であり、もっと突き詰めれば、「何を言ったか?」ではなく「どんな気持ちを抱いているか?」なのだ。
まだお勉強し始めの頃、自分のスタイルを貫くせーで、躓くことが多かった。何かの即物的な結果もすぐには出なかったし、浪人もしてるしね。
自分の身をもって、肌で感じた必要なモノだけを得ようとし続けたのだから、そりゃ、上から与えられるよりもコスパーが悪い。
そんな自分が、まさか、英語で論文を読んだり書いたりすることを、主体的に研究を進捗させることを、期待されるような人になるとは到底思えなかったし、シグマやインテグラルなどを沢山含む数式、誤差論などを後輩に教えるような立ち位置になるとは思わなかった。
変わったのはいつだろう?って考えて行きつくのは、自分の気持ちがきちんと変わった高2の頃。お勉強したり、研究したり、賢くなることに、本当に価値を感じることができるようになったあの頃に感謝しているし、今の振る舞いの中にも内在させている。
助けるために、守るために、系をより良くするために、論理性を高め、知識を得ていく必要がある。っと今でも言い切れるのは、俺の強さだ。
だとしたら、今、何かの結果が出ていなかったり、不本意な表現型を現実世界で発現しているのであったとしても、ある程度の長いタイムスパン(年オーダー)を考えた時に、あまりそこにとらわれず、俺、もしくは、相手、もしくは、集団が、どのような気持ちでいるのか?のほーが、遥かに重要なんじゃないか、っと想っている。
たとえば俺が、『ごめんね、っていうかさ、そもそもエントロピーって何??俺の知ってるエントロピーとは違うエントロピーで議論してるように聞こえるんだけど?』って言うと、みんな素直に「え?高橋さんはどう考えてるんですか?」って言ってくれるんだけど(笑)、俺とまったく同じことを高校生や大学初年次の子が言うことってあると思うんだよね。
そういうときに、俺が言った言葉と同様の価値を感じて、その子にきちんと説明しようと想えるかな?
「誰が言ったか?」ではなく、きちんと、「何を言ったか?」だけで判断できますか?って考えた時に、なかなか難しい。ちゃんと理解しよう、本当の意味で、人は対等に扱おう、平等主義、っと掲げるんだったら、簡単にできなきゃだけどさ。
コツコツお勉強だけをこなしていると、自分にとって絶対的な誰かが満足するまで、理解すればイイや、っとなってしまうことが多い。だとすると、エントロピーについて「乱雑さ」程度の理解で満足してしまうような人が、大学の教員のなかでも多いから、それでオッケーって多くの人が思ってしまって、他のことでもそんなんだから、後輩や自分の生徒に対して、横柄な態度で、上から押し付けるような環境になっていってしまうのかもしれない。
本当は、ある目的を達成しようと努力する過程で、仕方なく必要になってしまったから、ある知識をきちんと理解しなきゃだね、ってなる、そういう順番なのに、あの人を満足させるために、って日々実験したりお勉強したりすることほど、本末転倒なことはないんじゃないかな。
だから、敵は自然現象なんだってば。
俺が、それ以前に呆れかえるほど繰り返していた、ただの「真面目」。そうではなく、本当の意味で、自然現象をきちんと理解したい、論理性を高めたい、っと思った俺のきっかけは、ココには書けないけど(日常ではよく言ってることだけどね)、確実に存在している。
「真面目」は、「面」と「目」の間にレ点をつけて、「真」っ直ぐな「目」をした「面(ツラ)」をすることだ。真っ直ぐな瞳をもった表情をする演技なんて簡単だ。そうじゃなくって、自らの論理性がそこに内在していなきゃいけないし、もっといえば、何に応用するための論理性なのか?ということを心に飲み込まなきゃいけないと思う。
「誰が言ったか?」ではなく「何を言ったか?」、であり、もっと突き詰めれば、「何を言ったか?」ではなく「どんな気持ちを抱いているか?」なのだ。
まだお勉強し始めの頃、自分のスタイルを貫くせーで、躓くことが多かった。何かの即物的な結果もすぐには出なかったし、浪人もしてるしね。
自分の身をもって、肌で感じた必要なモノだけを得ようとし続けたのだから、そりゃ、上から与えられるよりもコスパーが悪い。
そんな自分が、まさか、英語で論文を読んだり書いたりすることを、主体的に研究を進捗させることを、期待されるような人になるとは到底思えなかったし、シグマやインテグラルなどを沢山含む数式、誤差論などを後輩に教えるような立ち位置になるとは思わなかった。
変わったのはいつだろう?って考えて行きつくのは、自分の気持ちがきちんと変わった高2の頃。お勉強したり、研究したり、賢くなることに、本当に価値を感じることができるようになったあの頃に感謝しているし、今の振る舞いの中にも内在させている。
助けるために、守るために、系をより良くするために、論理性を高め、知識を得ていく必要がある。っと今でも言い切れるのは、俺の強さだ。
だとしたら、今、何かの結果が出ていなかったり、不本意な表現型を現実世界で発現しているのであったとしても、ある程度の長いタイムスパン(年オーダー)を考えた時に、あまりそこにとらわれず、俺、もしくは、相手、もしくは、集団が、どのような気持ちでいるのか?のほーが、遥かに重要なんじゃないか、っと想っている。
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