たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「星野君の二塁打」について

2014-10-28 00:20:09 | Weblog
 今日は、かなり今さらだが、「星野君の二塁打」について話そうと思う。
 このブログは「日記」であることを公言しているので、言うまでも無く今日一日はこの物語についてたくさん考えました。

 原文はネットを探せばあるが、ここでは簡単なあらすじを「空気読みたい大人のブログ」様の「星野君の二塁打という話をオトナになった今改めて考えてみた」という記事から引用させていただくことにします。


 以下、引用。

 とある野球の大会への出場が決定する予選の最終試合でのこと。同点の最終回裏の攻撃、ノーアウトランナー1塁の場面でバッターは星野君に回ってきた。監督からはバントを命じられたが、絶好球が来たのでバントの指示に背いて二塁打を放った。そして、星野君のチームは次の打者が犠牲フライを打ったためこの試合に勝利することができた。しかし、翌日に監督はバントの指示に背いた星野君に「共同の精神や犠牲の精神の分からない人間は社会の役立つことはできない」と話し、大会への出場停止処分を下した。

 引用終わり。


 かなり日本社会の縮図的な内容なのですが、この「星野君の二塁打」という文章は日本の小学校の「道徳」の教材としてよく使われます。実際、俺も小学校の頃に読んだ記憶があります。
 ハッキリ言って、能力よりも権威のが大事なことを伝えるなんて、なんつー胸糞悪い内容の文章だ、っと最初(少なくとも小学生の頃)は思いましたが、他人の感想を聞けば聞くほど、色々考えさせられるなぁっと思ってしまいました。

 この話を他人にふると、面白いほど、その人の性質がでます。だいぶ前だけど、よく飲み会でこの話を色んな人にふってました。『…』は俺の反応。

 「監督の言うことは絶対でしょ!野球って、監督までユニフォーム着るくらいの、そういうスポーツだから」『だから、俺は野球みたいなスポーツ根性系は嫌いっす』

 「監督がその資質を見抜けなかったのが悪い。それを見抜くのが監督の仕事だから。結果オーライじゃん」『でも、日本社会のなかで、こういうことって、めちゃくちゃ良くあることだと思うんだけどなぁ』

 「これ、ここ!異存はないって約束したよな、って確認するところ、めちゃくちゃムカつく。上から言われたら、うん、って言うしかないくせに、その、うん、って言ったことを理由にしてくるあたりがないわー」『まぁ、スクールカーストのなかのグループでも同じことがあるし、実社会ではもっとわかりにくくそれを責めてくるから、もっとヤバいけどね』

 「研究では個人主義っていうか成果主義が大事だと思いますよ?でも、これはチームプレイだから、星野君が悪い」『いやいや、お前、その研究において、先生に媚び諂ってるじゃーん。それに、研究においてこそ、こういうシーンが多いってわかってるからこそ、媚び諂ってるんでしょ?』

 結果を出せばイイってもんじゃない。チームのために我慢する精神と個人の犠牲で勝ちを達成するということの大切さ(くだらなさ?)を教えるために、この教材が存在していることも、日本の道徳教育の現場では少なくないのだ。

 チームプレイと言うなら、この監督のこの行為こそがチームプレイを乱していると言えるのではないだろうか、と俺は思う。ヒエラルキーがあることを前提として、「星野君の今後のためを思って、言うこときかなかったから、試合には出さない」とやってしまうのは、教育におけるおこがましさを物語っている。
 二塁打にチャレンジするというのは、チームにおいてのリスクだ。そのリスクを個人が全面的に被り、さらに結果まで出したのにも拘らず、それを全否定されてしまうなら、チームのことなんてどうだって良いから、とにかく監督の言われたままにすれば、チームは負けても誰からも否定されずに、それで良いだろう、となってしまうのではないだろうか?
 こんなものを道徳教材にしてるから、日本では、まったくの新しいものが創れない。

 例えば自然科学の「研究」に落とし込んで考えてみれば、先生に言われた通りにさえやっていれば、たとえ結果が微妙でつまらなくても、先生は自分の非を決して認めないことを利用してしまえば、先生がムリヤリ勝手に意味ありげに解釈してくれてしまうわけで、その結果が成果に繋がりやすい。
 逆に先生に言われたことをやらないで、自分が先生の予測よりももっと面白い計画を立てて実際に結果が出せたとしても、先生の機嫌一つで、その結果は成果にはつながらないし、なぜ私が助言したこれをやらずにこんなくだらないことやっているのだ、ということを超えるほどの圧倒的絶対的な精緻さと面白さを一挙に求められてしまう。

 さて、あなたは、どちらを選ぶ?しかも、星野君と監督のように、簡単には不条理が露出されないように、仕組むような現代社会なんだぜ?

 これは俺のあくまで理想なのだが、監督はあとで星野君にこっそりこう言えば良かったんじゃないかと思っている(ちなみにこの感想はまだ誰にも言っておらず、初めてここで公開する)。

 『星野君、ぼくの、君に関する見込み違いをどうか許してくれ。できれば、他のみんなには、指示通りに二塁打を打ったということにして欲しいのだ。そうでないと、今後のチームワークに必ず支障がでる。そして、これ以降は、どうか、、こんな無能なぼくの指示に、どうか、従って欲しいのだ。今回は結果オーライかもしれないが、いつも上手くいくとは限らない。今後はぼくも、期待を想定しながら、作戦を立てるようにするから、よろしく頼むよ』

 もちろん、この閉鎖的な島国で、このようなマジの信頼関係が受け入れられるとは、とうてい思えない。
 しかし、俺は、確かに、こうやって、俺自身のマジの本音をちゃんと共有することで、生徒たちと信頼関係を築いてきた(つもり)だし、それが彼ら彼女らのためになっていることを小さく願っている。これこそが、星野君の今後にとっても、よりよく寄与するはずである。


 「大人になればわかるよ」
 っと言われ続けて、俺はもう十分に大人になったが、そのような思考停止を押し付けられた、だいたいのことは、やはり未だにわからない。それは当たり前で、こういう思考停止なことを言う大人は、俺の7歳の頃よりも、遥かにバカだからだ。最近は、PIになればわかるよ、とか、もう少し年齢がいけばわかる、などと言われることもあるが、それもきっと同じだろう。

 私もかつて、そのように幼く熱い感情を確かに持っていた。だが、これから歩むであろう社会の冷たい風を受けたなら、きっとその考え方は変えざるを得ない、、という忠告なのだろうが、その忠告こそが「社会の冷たい風」の本体であり、ハッキリ言って余計な御世話だ。

 幼く暖かい想いが社会の冷たさに触れることで冷たい側に、みんながみんな、なるわけじゃないのだ。だって、ご存じの通り、この世はエントロピー増大則に従って、冷たさがむしろ暖められていくのだから。

 精神教育をしてやろう、などという、監督から星野君への、おぞましいほどの狡さを同じように持っているヤツは全員、俺が、ぶっ飛ばしてやるぜ(笑)
 いや、マジで。ただし、俺は体育会系ではないので、言葉でぶっ飛ばすだけだけど。

「星野君の二塁打」について with たなかゆうき

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