スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&斬新

2014-11-28 19:12:43 | 将棋
 20日と21日に袋井市で指された第27期竜王戦七番勝負第四局。
 森内俊之竜王の先手で角交換を拒否。糸谷哲郎七段は中飛車。先手は銀冠にした後,飛車を7筋に回りました。リスクのある指し方ですが,功を奏してリードを奪うことに成功したとみていいのでしょう。さらに穴熊に組み替えました。
                        
 6八にいた飛車が回った局面。後手が角取りに構わず△5六歩と突いたので,激しい戦いに突入しました。先手はもちろん▲3五飛で△5七歩成もこの一手でしょう。
 そこで先手は▲6二歩と手筋の歩を放ちました。後手は堂々と△同金直。▲4二角が継続手で△5二飛は仕方がないところ。▲6四角成は王手ですから△同金もこの一手。そこで▲同角ではなく▲5三歩と叩きました。△同飛は今度こそ▲6四角でひどいですから△同金も止むを得ないでしょう。そこで▲5七金と手を戻しました。
                        
 手番は後手に渡しましたが,戦いが一息ついて銀の丸得ですから先手が相当のリードを奪ったように思えます。ですからしっかりと受ければ勝てたと思うのですが,反撃を含みにしたような受けを目指しました。それで差は詰り,最後に致命的な手も指したので,後手の勝ちに。相当の逆転に思え,大きな一局であったかもしれません。
 糸谷七段が勝って3勝1敗。第五局は来月3日と4日です。

 第一部定義三のうち,実体がそれ自身のうちにあるということは,ある条件下では,デカルトの本心からは許容可能になります。実際の相違の在処は,別の部分に存すると考えられるからです。したがってこの部分は,当時の反動的な神学者とか,それに追随するような思想家にとっては涜神的な内容であったでしょうが,デカルトのようなリベラルな思想家には,全面的に否定されるような内容を有していたわけではないと僕は考えます。もちろんそうしたリベラリストたちにとっても,スピノザの定義は急進的すぎると思われはしたでしょう。しかし,驚きがあったとすれば,スピノザがそれを公言したこと,あるいは公言しようとしていたことの方にあったと思うのです。
 要するに,実体はそれ自身のうちにあるという主張は,当時のリベラリストにとっての共通認識を,さらにひとつ前進させたような内容であると僕は考えます。確かに前進させた分だけ,スピノザの考え方は斬新であったし革新的であったという見方もできるでしょう。でもそれは,だれにも思いつかないような内容を有していたとは僕には思えません。つまり本来的な意味での革新性とか斬新さが,この部分に含まれていたとは僕は思わないのです。
 もちろん,それが斬新でなかったから,考察の対象には値しないとは僕はいいません。ただ,これは僕がこの部分を考察の対象から外す理由そのものではなく,その理由の前提条件であるという点に注意しておいてください。なぜこのことが前提条件になるのかということは最終的には,やはり後に示されることになります。というか自然と明らかになるでしょう。
 以上は第一部定義三の前半部分に関してです。後半部分,すなわち実体はそれ自身によって考えられるということは,前半部分とは事情が違います。どう事情が異なるのかはお分かりでしょう。この部分は,スピノザの哲学にとって固有の内容を有していると僕は考えています。つまりスピノザの実体の定義の斬新さは,この部分に凝縮されていると思うのです。おそらくこれは,当時のリベラルな思想家にも,思いつかないような内容だったのではないでしょうか。
コメント
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