スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

玉藻杯争覇戦&デカルトの実体の定義

2014-11-17 19:11:32 | 競輪
 昨日の高松記念の決勝。並びは武田-神山-藤田-稲村の関東,浅井-金子の中部に原,山田に勝瀬。
 スタートは取り合いになりましたが,最内を利した金子が確保したので前受けになったのは浅井。4番手に武田,8番手に山田で周回。残り2周のホームで山田が上昇,浅井を叩きにいくとすぐさま武田がその外を上昇,1コーナーで誘導を交わして前に。浅井がインから5番手を取り,一旦は連結を外した金子がバックで外から追い上げて浅井の後ろに戻って打鐘。ここから浅井が発進。ホームで神山に牽制され,立て直したもののバックでは藤田の牽制に遭って失速。関東勢に有利な展開となり,早めに発進した武田を交わした神山の優勝。4分の3車輪差で武田が2着に粘り,さらに4分の3車輪差で藤田が続き,関東の上位独占。
                         
 優勝した栃木の神山雄一郎選手は2011年7月のサマーナイトフェスティバル以来のグレードレース優勝。記念競輪は2009年12月の広島記念以来,およそ5年ぶりの通算97勝目。高松記念は1997年と1998年に連覇して以来,16年ぶりの3勝目。現在,グランプリ出場の賞金争いの当落線上。年齢を考えてもグランプリを走るチャンスもそう多くはないと考えられ,武田が神山が優勝でも構わないというレースをすることは事前に想定できました。実際にそのようなレースとなり,ラインも長くお膳立てが整うことになりましたから,喜びだけでなく,安堵感も伴うような優勝であったのではないでしょうか。できればあと3勝して,記念競輪100勝の大台に乗せてほしいところです。

 第一部定理八備考二から,第一部定義三の前半部分に,実体の本性も説明されていることが明らかとなりました。しかし僕は,この部分に関しても,今回の考察の主要な内容から除外します。この理由は,後に今回の考察の契機を説明するときに,自ずから明らかになります。ここからはこの部分がこれ以降の考察の主要部を占めない理由の前提について説明していきます。
 『デカルトの哲学原理』では,第二部定義二において実体が定義されています。そこでは,存在のために神の協力だけを必要とするものが実体であるといわれています。
 これでみると,それ自身のうちにあるというスピノザの実体の定義との間に、大きな乖離があるように思われます。実際にそのように理解するべきかもしれません。しかし僕はその点については解釈の態度を留保します。とりわけスピノザの哲学の立場からデカルトの哲学を読解しようとする場合,ここは必ずしも乖離があると断定しておかない方が安全であると僕には思えるからです。
 まず,デカルトがいう神の協力というのが,因果関係を示すのかどうかが判然としません。神の協力によって実体が存在するということと,神を原因として実体が存在するということが,同じ意味であるかどうかは分からないからです。同じ意味なら乖離があるといえますが,そうでないなら断定はできません。
 さらにいうと,このデカルトの定義というのは,実体が存在するために神の協力を必要とするのかどうかも不明です。あるものが存在するために,何も協力する必要がないならそれは実体で,協力するのが神だけであるならそれも実体で,神以外に何か別のものが協力するならそれは実体ではない,というようにデカルトの定義は読解できるようになっているのです。もちろんこのように定義したからには,神の協力によって存在する実体があるということを,デカルトは認めていたと考えておかなければなりません。しかし,神の協力を必要とせずに存在する実体というものはないということが,この定義に含まれているとは,とくにスピノザの立場から読解しようとする場合には,いいきれないと思うのです。
コメント
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