昨日,香港のシャティン競馬場で行われたジョッキークラブマイルGⅡ芝1600m。
ハナズゴールは少し出負けしたように見えました。馬群の最後尾を,内の馬と並走していく形に。前半の800mが48秒08で,超スローペース。このペースでこの位置取りですから,すでに苦しかったといえるでしょう。4コーナー手前から動いていき,直線は大外に。しかしさすがに前の馬たちも止まらず,直前の馬にも追いつけず,10頭中9着の入線。もっともこれは並走していた馬が早々に追うのを止めたためで,実質的にはレースに参加できなかったという形でした。
走ることが不可能なタイムでの決着ではありませんでしたので,状態面に問題があったものでしょう。いくら出負けしたからといって,このペースであれほどついていかれなかったということ自体が不可解な内容です。このまま滞在して香港マイルに挑む予定ですので,体調アップを図ってほしいところ。末脚は切れますので,それが生きる展開になれば,好勝負というシーンもあるのではないかと思います。
デカルトは,思惟を神に帰すること,いい換えれば思惟的実体と神とを同一視することはできました。しかし運動を完全な意味で神に帰すること,いい換えれば物体的実体と神とを同一視することはできませんでした。他面から,つまり神の側からいうならば,デカルトは神が思惟することは認めました。しかし神が運動するということは認めませんでした。これはなぜでしょうか。
デカルトの神の定義から演繹的に考えてみます。デカルトによる神の定義は,最高に完全というものでした。つまりデカルトの考えでは,思惟は完全な作用であるけれども,運動は完全な作用ではなかったことになります。これについても他面からいえば,思惟することによって神の完全性が損なわれるということはありません。しかしもしも神が運動をなすなら,その最高の完全性が損なわれてしまうということです。
ただ,これは何ら問題を解決しているとはいえません。問題の形式を変更させただけであるといえます。なぜ運動することによって,神の完全性は損なわれることになってしまい,思惟することによってはその完全性が損なわれることはないのでしょうか。
スピノザにとっては実在する実体は神だけでした。しかしデカルトにとってはそうではありませんでした。要するに冒頭の思惟的実体と物体的実体は,デカルトにとっては実在する実体であったのです。そのとき,これらふたつの実体に関して,ある認識の差異がデカルトにはありました。それは,思惟的実体というのは不可分であるけれども,物体的実体は可分的であるという認識です。
この時代,物体的なものを神に帰すことは,神への冒涜であり,タブーであると一般的に考えられていました。それはちょうど,神の発生を問うことがタブー視されていたのと同じ意味です。デカルトは発生に関するタブーに関しては,そのタブーを本心では破っていたけれども,表向きの態度としては破っていないように見せかけていたというのが僕の推測です。しかし物体的実体が可分的であるということは,そのような表向きの態度であったわけでなく,デカルトは本気でそう認識していたものと思います。
ハナズゴールは少し出負けしたように見えました。馬群の最後尾を,内の馬と並走していく形に。前半の800mが48秒08で,超スローペース。このペースでこの位置取りですから,すでに苦しかったといえるでしょう。4コーナー手前から動いていき,直線は大外に。しかしさすがに前の馬たちも止まらず,直前の馬にも追いつけず,10頭中9着の入線。もっともこれは並走していた馬が早々に追うのを止めたためで,実質的にはレースに参加できなかったという形でした。
走ることが不可能なタイムでの決着ではありませんでしたので,状態面に問題があったものでしょう。いくら出負けしたからといって,このペースであれほどついていかれなかったということ自体が不可解な内容です。このまま滞在して香港マイルに挑む予定ですので,体調アップを図ってほしいところ。末脚は切れますので,それが生きる展開になれば,好勝負というシーンもあるのではないかと思います。
デカルトは,思惟を神に帰すること,いい換えれば思惟的実体と神とを同一視することはできました。しかし運動を完全な意味で神に帰すること,いい換えれば物体的実体と神とを同一視することはできませんでした。他面から,つまり神の側からいうならば,デカルトは神が思惟することは認めました。しかし神が運動するということは認めませんでした。これはなぜでしょうか。
デカルトの神の定義から演繹的に考えてみます。デカルトによる神の定義は,最高に完全というものでした。つまりデカルトの考えでは,思惟は完全な作用であるけれども,運動は完全な作用ではなかったことになります。これについても他面からいえば,思惟することによって神の完全性が損なわれるということはありません。しかしもしも神が運動をなすなら,その最高の完全性が損なわれてしまうということです。
ただ,これは何ら問題を解決しているとはいえません。問題の形式を変更させただけであるといえます。なぜ運動することによって,神の完全性は損なわれることになってしまい,思惟することによってはその完全性が損なわれることはないのでしょうか。
スピノザにとっては実在する実体は神だけでした。しかしデカルトにとってはそうではありませんでした。要するに冒頭の思惟的実体と物体的実体は,デカルトにとっては実在する実体であったのです。そのとき,これらふたつの実体に関して,ある認識の差異がデカルトにはありました。それは,思惟的実体というのは不可分であるけれども,物体的実体は可分的であるという認識です。
この時代,物体的なものを神に帰すことは,神への冒涜であり,タブーであると一般的に考えられていました。それはちょうど,神の発生を問うことがタブー視されていたのと同じ意味です。デカルトは発生に関するタブーに関しては,そのタブーを本心では破っていたけれども,表向きの態度としては破っていないように見せかけていたというのが僕の推測です。しかし物体的実体が可分的であるということは,そのような表向きの態度であったわけでなく,デカルトは本気でそう認識していたものと思います。