マイルの王者を決める第31回マイルチャンピオンシップ。
ミッキーアイルが好発を決めましたが,最内のホウライアキコが追い上げてくると譲り,ホウライアキコの逃げに。ミッキーアイルが2番手に控え,グランデッツァ,ダイワマッジョーレ,サンレイレーザーの3頭がその後ろ。クラレントは掛かったようで外を上昇,フィエロ,ロゴタイプ,レッドアリオン,そして出負けから追い上げたワールドエースまでこの付近で一団。少し開いてその後ろの集団の先頭にダノンシャーク。前半の800mは45秒3のミドルペース。
ミッキーアイルが4コーナー手前で先頭に。グランデッツァが外から交わしにいったところ,この2頭の間をフィエロが突き,すぐさま抜け出しました。ミッキーアイルが一杯になったため,開いた進路をダノンシャークが抜け,フィエロの内から迫って叩き合い。ほとんど並んでの入線でしたが,写真判定の結果は差したダノンシャークの優勝。フィエロはハナ差で2着。1馬身半差の3着にグランデッツァ。
優勝したダノンシャークは昨年10月の富士ステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初勝利。デビューから一貫してマイル前後の距離を走り,どんな相手とでも大きく負けることはなかった馬で,優勝圏内にはいると思われました。パドックを見た限り,できの良さが目に付きましたので,体調面もいつになくよかったのではないでしょうか。内を回ることを求められる馬場状態で,外目の差し馬という点に不安を抱いていましたが,うまくインを通ってきた鞍上の手腕も大きかったと思います。父はディープインパクト。母の従弟にエルコンドルパサーが2着になった凱旋門賞を勝ったモンジューがいます。
騎乗した岩田康誠騎手は3日のJBCスプリントに続いての大レース制覇。第27回以来4年ぶりのマイルチャンピオンシップ2勝目。管理している大久保龍志調教師は2007年の菊花賞以来,7年ぶりの大レース3勝目でマイルチャンピオンシップ初勝利。
デカルトの運動の発生理論で,運動の普遍的原因とされているのが根本原因を意味します。つまりこの意味において,神が運動の発生の原因であることをデカルトは認めます。しかし運動の個別的原因に関してはそうではありません。個々の物体が運動をなすことの原因に神を措定することを,デカルトは否定しました。では何がその原因であるのかということが問われなければなりませんが,それはこの補足には必要ありません。個々の運動を神に帰することをデカルトが肯定しなかったということだけ分かれば十分です。
デカルトの見解をスピノザの哲学に引き寄せて説明してみましょう。デカルトがいっているのは,第一部定理二一の仕方で,運動と静止が延長の属性の直接無限様態として発生するとき、神はその起成原因です。しかし第一部定理二八の仕方で,ある物体が運動するとき,神はその起成原因ではありません。スピノザはその場合にも神が運動の発生の原因であること,そればかりでなく最近原因であることさえ認めます。デカルトの場合には,おそらく個々の運動に関しては,神が遠隔原因であることも認めないように思われます。
この相違は,前回の考察と関連しているといえるでしょう。スピノザはどちらの場合にも神を運動の原因と認めます。つまり因果関係は一義的に把握されているのです。しかしデカルトの場合にはそうではありません。因果関係が二様に把握されていることになります。ですから,二種類の因果性というのは,実はスピノザの哲学に内在しているのではなく,デカルトの哲学にこそ含まれていると考えるべきなのではないでしょうか。
次に,デカルトが個々の運動を神に帰することができなかったこと,いい換えれば神が運動するものであるということを認められなかったことの理由を考えていきます。
『デカルトの哲学原理』では,神の定義は,思惟について考察する第一部で与えられています。デカルトの実体の定義が,物体について考察される第二部になってから示されているのと,これは対照的であると僕は考えます。つまりデカルトは,神が思惟するものであるということは,肯定できたのです。
ミッキーアイルが好発を決めましたが,最内のホウライアキコが追い上げてくると譲り,ホウライアキコの逃げに。ミッキーアイルが2番手に控え,グランデッツァ,ダイワマッジョーレ,サンレイレーザーの3頭がその後ろ。クラレントは掛かったようで外を上昇,フィエロ,ロゴタイプ,レッドアリオン,そして出負けから追い上げたワールドエースまでこの付近で一団。少し開いてその後ろの集団の先頭にダノンシャーク。前半の800mは45秒3のミドルペース。
ミッキーアイルが4コーナー手前で先頭に。グランデッツァが外から交わしにいったところ,この2頭の間をフィエロが突き,すぐさま抜け出しました。ミッキーアイルが一杯になったため,開いた進路をダノンシャークが抜け,フィエロの内から迫って叩き合い。ほとんど並んでの入線でしたが,写真判定の結果は差したダノンシャークの優勝。フィエロはハナ差で2着。1馬身半差の3着にグランデッツァ。
優勝したダノンシャークは昨年10月の富士ステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初勝利。デビューから一貫してマイル前後の距離を走り,どんな相手とでも大きく負けることはなかった馬で,優勝圏内にはいると思われました。パドックを見た限り,できの良さが目に付きましたので,体調面もいつになくよかったのではないでしょうか。内を回ることを求められる馬場状態で,外目の差し馬という点に不安を抱いていましたが,うまくインを通ってきた鞍上の手腕も大きかったと思います。父はディープインパクト。母の従弟にエルコンドルパサーが2着になった凱旋門賞を勝ったモンジューがいます。
騎乗した岩田康誠騎手は3日のJBCスプリントに続いての大レース制覇。第27回以来4年ぶりのマイルチャンピオンシップ2勝目。管理している大久保龍志調教師は2007年の菊花賞以来,7年ぶりの大レース3勝目でマイルチャンピオンシップ初勝利。
デカルトの運動の発生理論で,運動の普遍的原因とされているのが根本原因を意味します。つまりこの意味において,神が運動の発生の原因であることをデカルトは認めます。しかし運動の個別的原因に関してはそうではありません。個々の物体が運動をなすことの原因に神を措定することを,デカルトは否定しました。では何がその原因であるのかということが問われなければなりませんが,それはこの補足には必要ありません。個々の運動を神に帰することをデカルトが肯定しなかったということだけ分かれば十分です。
デカルトの見解をスピノザの哲学に引き寄せて説明してみましょう。デカルトがいっているのは,第一部定理二一の仕方で,運動と静止が延長の属性の直接無限様態として発生するとき、神はその起成原因です。しかし第一部定理二八の仕方で,ある物体が運動するとき,神はその起成原因ではありません。スピノザはその場合にも神が運動の発生の原因であること,そればかりでなく最近原因であることさえ認めます。デカルトの場合には,おそらく個々の運動に関しては,神が遠隔原因であることも認めないように思われます。
この相違は,前回の考察と関連しているといえるでしょう。スピノザはどちらの場合にも神を運動の原因と認めます。つまり因果関係は一義的に把握されているのです。しかしデカルトの場合にはそうではありません。因果関係が二様に把握されていることになります。ですから,二種類の因果性というのは,実はスピノザの哲学に内在しているのではなく,デカルトの哲学にこそ含まれていると考えるべきなのではないでしょうか。
次に,デカルトが個々の運動を神に帰することができなかったこと,いい換えれば神が運動するものであるということを認められなかったことの理由を考えていきます。
『デカルトの哲学原理』では,神の定義は,思惟について考察する第一部で与えられています。デカルトの実体の定義が,物体について考察される第二部になってから示されているのと,これは対照的であると僕は考えます。つまりデカルトは,神が思惟するものであるということは,肯定できたのです。