スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流名人戦倉敷イベント&無用性の意味

2008-02-01 22:07:48 | 将棋トピック
 女流名人戦第一局の最後に少し書きましたが,第二局に合わせて行われる予定のイベントに,予定されていたLPSA所属棋士の出演がキャンセルされました。多くの将棋ファンが心を痛めた出来事であり,今さら僕が書くほどのこともないのですが,前回の記述は中途半端な部分がありますので,少しだけ別の観点から補足しておきます。
 このことはLPSAの発表によって知らされました。僕が書くことは,この発表の内容が事実であるということを前提としています。
 僕が最大の問題と考えるのは,現段階での交流の拒否の理由を,日本将棋連盟側が明らかにしていない点です。第一局のときに僕は対局者の意向うんぬんと書きましたが,これはそうしたものの一例であって,僕がそう推測しているというわけではありません。あるいは交流をせずに対局することによって,対決ムードをあおるというのもひとつの考え方ではあるでしょう。今回のタイトル戦は連盟所属棋士による対戦ですし,LPSA所属棋士がいなければイベントが成立しないというものでもないかもしれません。どんな理由であれ,すべての将棋ファンを納得させることは不可能ですが,少なくとも理由を明らかにするだけましだとはいえるでしょう。僕自身は理由が分からないうちは拒否行為そのものについてはどうこういうつもりはありませんが,理由を明らかにしないという一点だけで,連盟側は非難されて当然であると思います。
 もうひとつ気になるのは,この措置が現段階とされている点。普通に考えれば,現段階で拒否するのなら,いずれはこの措置は解消されるのでしょう。ではそれはいつになるのでしょうか。あるいはいつと日時を確定できないまでも,どういう状況になれば解消できるのでしょうか。これが分からなければ,拒否されたLPSA側も,対処のしようがないように思えます。交流の拒否という強い態度に臨む以上,連盟側にはこの点を明らかにする義務があるのではないかと僕は思います。
 LPSA側は,連盟に今後も働きかけていくとしていますが,逆にいえば,闇雲に働きかけるのではなく,さしあたっては上記の2点を明らかにするように求めるのが先決であるように思います。

 明日から奈良記念が開催されます。関東勢と地元になる近畿勢の争いになりそうです。

 憐憫という感情の有用性の意味をこのように考えれば,逆に,理性に従う限りでは憐憫が無用であるといわれることの意味も,さらにはっきりと理解できるのではないかと思います。
 理性と憐憫の関係の第一義的な意味は,人間は理性に従う限りでは,憐憫という感情を抱くということすらないということでした。しかし,理性に従う人間にとって,憐憫という感情が無用な感情であるといわれることの意味は,『エチカ』においてはこれだけではないと思います。
 人間の理性とは,人間の精神によるある十全な認識のひとつです。したがって第三部定理一により,これは人間の精神の能動を意味します。いい換えればこれは,第三部定義二により,人間の本性が十全な原因であるような認識なのです。よってこうした認識によって得られるものは,すべての人間にあって同一であるということになります。よって人間は理性に従う限りでは本性が個人によって相違するということはないのであって,これを示しているのが第四部定理三五であるということになるわけです。
 有用性が異なる本性を部分的にでも一致させるという方向に作用させるという観点からいわれるのであれば,もしも本性が最初から一致している場合にはそうした作用自体が無用であるといえるでしょう。したがって理性に従う限りでは,憐憫という感情は無用であるということになります。
 これでこのテーマは終りとし,明日からまとめに入ります。
コメント
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