スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ツァラトゥストラはこう言った&特有の問題

2020-07-19 19:09:12 | 哲学
 今回の考察で,『アンチクリストDer Antichrist』におけるニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheのスピノザに対する蜘蛛の比喩を詳しく説明したときに,『ツァラトゥストラはこう言ったAlso sprach Zarathustra』の中にも蜘蛛が出てくるといいました。この蜘蛛はスピノザとは無関係ではありますが,『ツァラトゥストラはこう言った』はおそらくニーチェを最も代表する著作といえるでしょうから,簡単に紹介しておきましょう。
                                   
 この本は哲学書であることには違いありませんが,書籍のジャンルとしていえば小説に該当します。ニーチェとゲーテの関係について紹介したときにいったように,ニーチェはゲーテJohann Wolfgang von Goetheに対して畏敬の念を抱くといっているほど高い評価を与えています。そのときニーチェは,思想家としてのゲーテを評価しています。汎神論論争においてゲーテがスピノザの擁護に回ったように,確かにゲーテは思想家としての一面がありますが,どちらかといえば『ファウスト』に代表されるような作家として著名であるといえるでしょう。つまりゲーテが思想家としていくつもの小説を書いたように,ニーチェも自分自身の思想を背景として,『ツァラトゥストラはこう言った』という小説を書いたのだということになるでしょう。
 『この人を見よEcce Homo』の中でニーチェは,自身の著作についての解説を与えています。その中で最も多くのページを割いているのが『ツァラトゥストラはこう言った』に対してです。これはほかの著作と比較したときの特殊性に起因しているという面もあるでしょうが,単純にニーチェが最も気に入っている自作の著書がこれであったからだという可能性の方が高いのではないでしょうか。
 小説であることには違いありませんが,何の知識もなしに読み始めれば,この本の内容を十分に理解することは困難であると思われます。ひとつは数多くの比喩が用いられれているからで,たとえば蜘蛛なら蜘蛛で,それが何の比喩であるかといったことを考える必要があります。もうひとつはこの小説がニーチェの思想を背景にしているからであり,とりわけ永劫回帰の思想が踏まえられていますから,予めその知識を有しておいてから読む方がよいでしょう。

 スピノザの哲学では第一部定義六により,無限に多くの属性infinitis attributisによって神Deumの本性essentiaが構成されます。このとき,ある属性と別の属性の区別distinguereは実在的区別です。AとBが実在的に区別されるとき,AとBの間には共通点がないといういわれ方をスピノザの哲学ではされます。すなわち神は,各々が実在的に区別される,いい換えれば各々が共通点を有さない,無限に多くの属性によって本性を構成されているということになります。
 第一部定理三がいっているのは,共通点をもたないもの,すなわち実在的に区別されるものの間では,一切の因果関係が発生しないということです。このことが,神の本性に自由意志voluntas liberaが属する,すなわち自由意志とは力potentiaという観点からみられる限りでの神の本性であるということを主張しようとする場合に,大きく影響するのです。というのは,もし自由意志というのが絶対的な思惟Cogitatioであると規定するなら,それは思惟の属性Cogitationis attributumの本性を力という観点からみたものであるということにはなりますが,神が思惟以外の属性によって本性を構成されるとみた場合には,神の本性を力という観点からみたものであるということにならなくなってしまうからです。
 デカルトRené Descartesの哲学と比較した場合には,この問題はスピノザの哲学に特有の問題であるといえます。というのは,デカルトの場合はそもそも無限に多くの属性が存在するということに対する言及がなく,実質的に存在するとされているのは,思惟の属性と延長の属性Extensionis attributumだけです。もっともデカルトの哲学では,第一部定義四のような,属性が実体の本性を構成するということが重視されませんから,正確を期していうなら,デカルトの哲学では思惟的実体物体的実体substantia corporeaのふたつの実体だけが実質的に存在するということになります。このとき,思惟的実体についてはそれが神であるとみなせることになるのですが,物体的実体は神とは別の実体として規定されることになるので,神の本性に自由意志が属するとしたときに,それを絶対的思惟とみなしても問題は生じません。つまり,神が無限に多くの属性によって本性を構成されるがゆえに,スピノザの哲学ではデカルトの哲学では発生しなかった問題が生じるのです。

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