日本ダービーを勝ったロジャーバローズは母が2008年にイギリスで産まれたリトルブックで,輸入基礎繁殖牝馬になります。ファミリーナンバーは16-fです。
リトルブックはイギリスで10戦して3着が1度あるだけであとは着外です。ですが最初の種付けをされた状態ですぐに繁殖牝馬として輸入されました。これには理由があって,5つ上の半姉でやはりイギリス産のドナブリーニという馬が先に繁殖牝馬として輸入され,成功を収めていたからです。
ドナブリーニはイギリスでGⅠを勝っていますから,競走成績を評価されて輸入されたものでしょう。最初の産駒がドナウブルーで,2012年に京都牝馬ステークスと関屋記念を勝ちました。
さらに翌年に産まれた全妹がジェンティルドンナ。2012年に年度代表馬,2013年が最優秀4歳以上牝馬,2014年が年度代表馬と,3年連続でJRA賞を受賞。リトルブックの初仔が日本で産まれたのが2013年ですから,ジェンティルドンナの2012年の活躍が輸入の決め手となったといえます。ロジャーバローズはドナウブルーとジェンティルドンナの姉妹とは従弟になるわけです。
もう少し遡るとドナブリーニとリトルブック姉妹の3代母にあたるBeau Darlingという馬から分枝があります。昨年の埼玉新聞栄冠賞を勝っている現役のトーセンデュークはその子孫。ほかに現役でオープンを連勝中の馬もいますので,こちらの分枝からも重賞の勝ち馬が出てくる可能性がありそうです。
スピノザが延長の属性Extensionis attributumを神Deusの本性essentiaに帰したことを発端とした論理は,神の無限知性intellectus infinitusであれその無限知性の一部である人間の精神mens humanaのうちにであれ,円の十全な観念idea adaequataが存在するなら,この十全な観念の対象ideatumである円が,無限知性ないしは人間の精神を離れて形相的にformaliter存在しなければならないということを帰結させます。そしてスピノザは,自身が示している,一端が固定しもう一端が運動する直線によって作成される図形である,という円の定義Definitioは,知性が円を概念するconcipereために資する定義であるということを認めているのです。したがって,たとえばある人間が精神の能動actio Mentisによってこのように円を概念するなら,その観念は円の十全な観念であるということになります。よってその観念の対象である円は,その人間の精神の外に形相的有esse formaleとして存在しなければなりません。ところが一方で,スピノザはこの円の定義に虚構が含まれているということも認めるのです。いい換えれば,知性なり精神なりを離れて形相的にある円の起成原因causa efficiensは,このような直線の運動motusではない,少なくともそうでない場合もあり得るということを認めているのです。これらのことがなぜ両立し得るのか,そこには矛盾があるのではないかという主旨の疑問が生じて不思議ではないように僕は以前から思っていました。
これに加えて,次のような事情,デカルトRené Descartesやスピノザ自身の哲学との関係ではなく,それを解釈する側からみた場合の事情というのが影響してきます。
デカルトの数学というのは,認識cognitioの世界の学問として限定されています。よってこれはきわめて認識論的に,あるいは観念論的に数学という学問を規定づけているといえるのではないかと思います。なので,もし唯物論的な思考に慣れている人がいたら,このような数学の規定というのを不思議に,あるいはとても奇妙なものと思ったとしておかしくありません。ものの思考の仕方には確かに慣れというのがあるのであって,僕自身もスピノザ哲学的な思考に対する慣れというものがありますから,そこから大きく逸れるような思考の仕方が記述されていたり主張されていたりする場合には,理解するのに時間が掛かるということがあるのです。
リトルブックはイギリスで10戦して3着が1度あるだけであとは着外です。ですが最初の種付けをされた状態ですぐに繁殖牝馬として輸入されました。これには理由があって,5つ上の半姉でやはりイギリス産のドナブリーニという馬が先に繁殖牝馬として輸入され,成功を収めていたからです。
ドナブリーニはイギリスでGⅠを勝っていますから,競走成績を評価されて輸入されたものでしょう。最初の産駒がドナウブルーで,2012年に京都牝馬ステークスと関屋記念を勝ちました。
さらに翌年に産まれた全妹がジェンティルドンナ。2012年に年度代表馬,2013年が最優秀4歳以上牝馬,2014年が年度代表馬と,3年連続でJRA賞を受賞。リトルブックの初仔が日本で産まれたのが2013年ですから,ジェンティルドンナの2012年の活躍が輸入の決め手となったといえます。ロジャーバローズはドナウブルーとジェンティルドンナの姉妹とは従弟になるわけです。
もう少し遡るとドナブリーニとリトルブック姉妹の3代母にあたるBeau Darlingという馬から分枝があります。昨年の埼玉新聞栄冠賞を勝っている現役のトーセンデュークはその子孫。ほかに現役でオープンを連勝中の馬もいますので,こちらの分枝からも重賞の勝ち馬が出てくる可能性がありそうです。
スピノザが延長の属性Extensionis attributumを神Deusの本性essentiaに帰したことを発端とした論理は,神の無限知性intellectus infinitusであれその無限知性の一部である人間の精神mens humanaのうちにであれ,円の十全な観念idea adaequataが存在するなら,この十全な観念の対象ideatumである円が,無限知性ないしは人間の精神を離れて形相的にformaliter存在しなければならないということを帰結させます。そしてスピノザは,自身が示している,一端が固定しもう一端が運動する直線によって作成される図形である,という円の定義Definitioは,知性が円を概念するconcipereために資する定義であるということを認めているのです。したがって,たとえばある人間が精神の能動actio Mentisによってこのように円を概念するなら,その観念は円の十全な観念であるということになります。よってその観念の対象である円は,その人間の精神の外に形相的有esse formaleとして存在しなければなりません。ところが一方で,スピノザはこの円の定義に虚構が含まれているということも認めるのです。いい換えれば,知性なり精神なりを離れて形相的にある円の起成原因causa efficiensは,このような直線の運動motusではない,少なくともそうでない場合もあり得るということを認めているのです。これらのことがなぜ両立し得るのか,そこには矛盾があるのではないかという主旨の疑問が生じて不思議ではないように僕は以前から思っていました。
これに加えて,次のような事情,デカルトRené Descartesやスピノザ自身の哲学との関係ではなく,それを解釈する側からみた場合の事情というのが影響してきます。
デカルトの数学というのは,認識cognitioの世界の学問として限定されています。よってこれはきわめて認識論的に,あるいは観念論的に数学という学問を規定づけているといえるのではないかと思います。なので,もし唯物論的な思考に慣れている人がいたら,このような数学の規定というのを不思議に,あるいはとても奇妙なものと思ったとしておかしくありません。ものの思考の仕方には確かに慣れというのがあるのであって,僕自身もスピノザ哲学的な思考に対する慣れというものがありますから,そこから大きく逸れるような思考の仕方が記述されていたり主張されていたりする場合には,理解するのに時間が掛かるということがあるのです。
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