『破門の哲学』に紹介されている,スピノザのあるエピソードの話をします。
スピノザはユダヤ教を破門された後,間借り生活で転々としていたのですが,あるとき下宿先の夫人から,自分はこのままキリスト教を信仰していてよいかという質問を受けたそうです。おそらくその夫人は,キリスト教とスピノザ主義には隔たりがあるということを理解していたのでしょう。それに対してスピノザは,キリスト教が立派な宗教であるということ,だから夫人が信仰を続けていけばきっと幸福になれるであろうということを,淡々と答えたそうです。
確かにスピノザ主義の考え方とキリスト教の教えとの間には,埋めがたい溝があるのです。しかしだからといって,スピノザはキリスト教が教える内容のすべてを否定していたというわけでもないのです。そして,スピノザに対して真剣に質問したであろうこの夫人に,スピノザがこのように答えた理由も,僕には何となくですが分かる気がします。
明日は弥彦記念の決勝なので予想します。ここは高峰選手の早駆けから藤原選手△の二段駆けとみて,小橋選手◎と阿部選手○の争いとみます。もしも岡村選手が執拗に抵抗すれば,佐藤選手▲が怖いです。
所産的自然Natura Naturataの対義語となるのが能産的自然Natura Naturansです。
で,所産的自然は様態modi,modusと理解してよいわけですから,スピノザ哲学では能産的自然というのは神Deus(存在する唯一の実体substantiaとしての)とその属性attributumということになります。つまり,スピノザ哲学でいうところの自然とは,その本性natura,essentiaの必然性necessitasによって産出するものとしての能産的自然と,能産的自然から必然的に流出する(産出される)ものとしての所産的自然からなり,そしてこれ以外には何も存在しないということになるのです。
これもまた,スピノザ哲学が汎神論とみなされるひとつの要因であると思われます。なお,能産的自然と所産的自然については,『エチカ』の第一部定理二九の備考Scholiumにスピノザによる若干の解説がありますので,『エチカ』をお持ちの方はそちらも合わせてご参照ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/3c/376823fe3d41be18d6035ba76f52f58d.jpg?random=de62606f09ecef5e4eda0171adf553f1)
スピノザはユダヤ教を破門された後,間借り生活で転々としていたのですが,あるとき下宿先の夫人から,自分はこのままキリスト教を信仰していてよいかという質問を受けたそうです。おそらくその夫人は,キリスト教とスピノザ主義には隔たりがあるということを理解していたのでしょう。それに対してスピノザは,キリスト教が立派な宗教であるということ,だから夫人が信仰を続けていけばきっと幸福になれるであろうということを,淡々と答えたそうです。
確かにスピノザ主義の考え方とキリスト教の教えとの間には,埋めがたい溝があるのです。しかしだからといって,スピノザはキリスト教が教える内容のすべてを否定していたというわけでもないのです。そして,スピノザに対して真剣に質問したであろうこの夫人に,スピノザがこのように答えた理由も,僕には何となくですが分かる気がします。
明日は弥彦記念の決勝なので予想します。ここは高峰選手の早駆けから藤原選手△の二段駆けとみて,小橋選手◎と阿部選手○の争いとみます。もしも岡村選手が執拗に抵抗すれば,佐藤選手▲が怖いです。
所産的自然Natura Naturataの対義語となるのが能産的自然Natura Naturansです。
で,所産的自然は様態modi,modusと理解してよいわけですから,スピノザ哲学では能産的自然というのは神Deus(存在する唯一の実体substantiaとしての)とその属性attributumということになります。つまり,スピノザ哲学でいうところの自然とは,その本性natura,essentiaの必然性necessitasによって産出するものとしての能産的自然と,能産的自然から必然的に流出する(産出される)ものとしての所産的自然からなり,そしてこれ以外には何も存在しないということになるのです。
これもまた,スピノザ哲学が汎神論とみなされるひとつの要因であると思われます。なお,能産的自然と所産的自然については,『エチカ』の第一部定理二九の備考Scholiumにスピノザによる若干の解説がありますので,『エチカ』をお持ちの方はそちらも合わせてご参照ください。
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