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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

アスカリーブル&ドゥサンティとアルチュセール

2020-04-01 20:13:03 | 名馬
 先週の桜花賞を勝ったアクアリーブルの母はアスカリーブルです。父は1999年にセントライト記念を勝ったブラックタキシード
 2歳6月に園田でデビュー。兵庫の重賞を含む4連勝で大井に転入。転入初戦を勝って5連勝。2戦目は2着で東京2歳優駿牝馬は7着でした。
 3歳初戦のオープンは3着。ここで船橋に移籍。その初戦となったユングフラウ賞で南関東重賞初制覇。牡馬相手の京浜盃は4着でしたが,牝馬戦に戻して東京プリンセス賞で南関東重賞2勝目。さらに関東オークスも勝って重賞ウイナーに。夏場も休まず,黒潮盃,戸塚記念と牡馬相手に連勝。ロジータ記念は2着。古馬相手の初戦に選んだクイーン賞は9着でした。この年のNARグランプリの3歳最優秀牝馬を受賞。
 一息入れて4歳初戦の大井記念は10着。グランドマイラーズで3着になった後,園田,水沢と遠征して連続2着。レディスプレリュードで6着となったところで休養。
 5歳初戦はスパーキングレディーカップで9着。ここから前年と同様に遠征し,園田はまた2着でしたが水沢では岩手の重賞を制しました。この後,レディスプレリュード,クイーン賞と重賞を連戦し共に7着。東京シンデレラマイルは5着でした。
 6歳初戦のオープンは10着。エンプレス杯は5着。休養して連覇を目指した水沢遠征は7着。これ以降はレディスプレリュードが12着,JBCレディスクラシックが12着,クイーン賞が7着。年が明けて報知オールスターカップが11着,そして川崎記念も11着と,燃え尽きるような形で引退となりました。
 4連勝で制した戸塚記念以降は南関東では勝てませんでした。3歳の夏から春にかけてレースを使い過ぎた影響があったのかもしれません。

 アルチュセールLouis Pierre AlthusserとドゥサンティJean-Toussaint Desantiの間には,エピステモロジーサークルの中でも特別な関係があったとみることができます。なぜならふたりは共に同じサークルの一員であったという共通性だけではなく,共にフランス共産党の党員であったという点で,政治的な意味での同志でもあったからです。
 先述したようにドゥサンティは1943年にフランス共産党に入党し,1956年に路線の対立から離党しました。アルチュセールが入党したのがいつかは『主体の論理・概念の倫理』にも『〈内在の哲学〉へ』にも書かれていないのですが,ドゥサンティがアルチュセールを共産党に勧誘したのは1940年代であったとされています。そして同時にこの時期に,ドゥサンティはアルチュセールにスピノザを教えていたようです。この意味でもこのふたりにはスピノザを介した個人的な繋がりがあったといっていいでしょう。
                                         
 ただし,次の点には注意してください。近藤は,カヴァイエスJean CavaillèsやゲルーMartial Gueroultがスピノザの哲学を政治的なあるいは宗教的な立場の基礎付けには用いようとしなかったのに対し,ドゥサンティやアルチュセールはスピノザの哲学によってそれを基礎づけようとしたといっています。ですがこれは全体の論述の中からも明らかですが,文字通りに受け取ることはできません。ドゥサンティのことは僕にはよく分かりませんが,アルチュセールはスピノザ主義者というよりはマルクス主義者なのであって,アルチュセールが共産党に入党した要因はそちらだと僕は考えています。そしてその立場を,スピノザの哲学によって基礎づけようとしたというのが正確でしょう。つまり,カヴァイエスはスピノザ主義からレジスタンス運動への参加という政治的行動をとったと僕は解しますが,アルチュセールの場合は,スピノザ主義によって共産党に入党したのではなく,共産党に入党したその立場をスピノザ主義によって基礎づけようとした,他面からいえば肯定しようとしたというのが正しいところだと思います。
 ドゥサンティが離党に至った路線の対立は,ドゥサンティがフランス共産党の内部においてスターリン主義を保持しようとしたことに端を発したようです。
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