スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&能動と受動

2020-04-17 19:02:17 | 将棋
 昨日の第13期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 西山朋佳女王の先手で5筋位取り中飛車。後手の加藤桃子女流三段が穴熊とみせて中央から仕掛ける将棋になりました。仕掛けのタイミングはよかったけれどもその後でやりすぎたといわれていますが,龍を作られたとはいえ駒得しているので,そんなに後手が悪くしたというわけでもないように僕には思えました。
                                        
 後手が4筋の歩を取り込んで,先手が取り返した局面。ここで☖5四飛と指しています。疑問手だったとのことですが,僻地の飛車を龍と交換できるのですから,この手もそこまで悪い手ではないように思えます。☗同龍☖同金☗4一銀と進みました。
 そこで☖8九飛と打ったのですが,ここは☖4八歩もあったっと思います。ただ,☗3九金と逃げられるとこの歩が残るのを嫌ったのでしょう。それは実戦の☗8二飛に☖4二歩と受けたことから想像できます。先手は☗3二銀成と取って☖同玉に☗4三歩と打ちました。
                                        
 ここで☖5七角と打ちましたが,☖4八銀も有力だったと思います。それでもだめなら第2図は後手が非勢だったことになるでしょう。
 西山女王が勝って1勝1敗。第三局は来月12日に予定されています。

 デカルトRené Descartesは理性ratioによって欲望cupiditasを統御するということを道徳律の中心に据えました。しかしスピノザはこの道徳律を否定しました。この道徳律は現実的に存在する人間に対して,不可能なことを要求しているからです。つまり,理性によって欲望を統御することはできないとスピノザは主張したのです。その理由は次の点にあります。
 デカルトにとって理性は人間の精神mens humanaを,そして欲望は人間の身体humanum corpusを代表する要素でした。つまり,理性によって欲望を統御するというのは,精神によって身体を統御するというのと同じ意味を有していたことになります。そこでもし実際にそうしたことが行われると仮定しましょう。そのとき,精神は身体を統御するのですから,能動actioという状態にある,同じことですが,身体に対して働きをなしている状態にあります。同時に身体は,精神によって統御されているのですから,受動passioという状態にある,これも同じことですが,精神から働きを受けている状態にあることになります。精神が身体を統御するとき,身体は精神によって統御されるのですから,これらふたつの状態,つまり精神が働いている状態と,身体が働きを受けている状態は同時に出現します。したがってデカルトの道徳律を成立させるためには,精神の能動は身体の受動を意味しなければならないことになります。逆に統御が失敗している状態は,身体によって精神が統御されている状態であると把握されなければならないので,同じ理由により,身体の能動と精神の受動が,現実的に存在する同じ人間のうちに,同時に出現していることになるでしょう。
 スピノザが否定しているのはこの点に関わります。スピノザによれば人間の能動と受動は,精神にあっても身体にあっても一律なのです。すなわち,ある人間の精神が働いているならその人間の身体も働いているのであり,逆にある人間の精神が働きを受けているならその人間の身体も働きを受けているのです。もちろんこのことは,身体の方を中心に据えても同じことです。つまりある人間の身体が働いている状態にあってはその人間の精神も働いていますし,身体が働きを受けているときには精神も働きを受けているのです。
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