スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&時期

2019-11-29 19:02:38 | 将棋
 23日に倉敷市芸文館で指された第27期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 里見香奈倉敷藤花の先手で中飛車。伊藤沙恵女流三段が三間飛車にして相振飛車。先手の美濃,後手の矢倉に。端を攻めたところで後手がリードを奪ったのではないかと思いますが,勝敗の分かれ目はもう少し後にあったと思われます。
                                        
 先手が後手の玉頭を叩いて後手が取ったところ。ここで☗6八飛と寄りましたが,この手は緩かったように思います。すぐに☗7七桂と跳ねた方がよかったのではないでしょうか。
 後手は☖6六歩と焦点の歩を放ち☗同飛に☖5二銀と受けました。先手はそれから☗7七桂と跳ねたのですが☖7五金と逃げた手が飛車取りに。結果からいうとここでは☗6三歩成からの二枚換えの順に持ち込むほかなかったのではないでしょうか。
 実戦は☗6九飛と逃げました。しかし☖4六歩☗同金☖1六歩☗2五桂と決められて☖6六香と打たれました。
                                        
 これで飛車角を押さえ込まれて先手は攻めが難しくなりました。ここで後手の優勢がはっきりしたように思います。
 伊藤三段が勝って1勝1敗。第三局は24日に指されました。

 スピノザは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の中で,少なくとも部分的には,確実性certitudoと真の観念idea veraを等置しています。したがってすでにその時期には,デカルトRené Descartesの方法論的懐疑doute méthodiqueに対する批判的精神を有していたと考えるべきだと思います。ただし『スピノザ 力の存在論と生の哲学』でいわれているように,『知性改善論』は重層的であるため,その部分が書き直された可能性を完全に否定することはできません。ですからそれがいつ書かれたのかということを確定的に示すことはここでは避けておきます。
 一方,僕にとって確実であると思われるのは,どんなに遅くとも『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を書いていたときのスピノザには,そのような考え方がすでに内在していたということです。というのは,その中には真理veritasと確実性をスピノザは等置していることを窺わせる記述が含まれているからです。なのでこのことについてここでは詳しく説明しておきましょう。
 『デカルトの哲学原理』は,第一部の定義Definitioの前に,緒論が書かれています。その中で確実性に関連する事項に多くが割かれています。これには明確な理由があるのですが,それについては後で説明します。
 『デカルトの哲学原理』は1663年に出版されたものです。ただし原案は,スピノザがレインスブルフRijnsburgに住んでいたときに同居させていたカセアリウスJohannes Caseariusにデカルトの哲学を教えるために口述筆記させたものです。1663年2月24日付のシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの書簡八に,そのカセアリウスの名前が出ています。ですからそのときにはすでにデカルトの哲学を教えていたとみるのが適切でしょう。つまりこの指導は前年から始まっていたと思われます。ただしその指導は,第二部から開始されていたことが,マイエルLodewijk Meyerに送った書簡十五から分かります。
 そして,これから僕が示す部分は,第一部の前にある緒論に該当する部分で,ここは書籍化するにあたって書き下ろされた部分ということになります。書簡十五でスピノザがいっていることから,第一部は二週間で書かれたということが分かります。もちろん第一部の前にある緒論ですから,これもその二週間のうちに書かれたものの一部ということになるでしょう。
コメント
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