スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&第二部定理四三備考

2019-11-12 18:52:52 | 将棋
 10月23日と24日に仁和寺で指された第32期竜王戦七番勝負第二局。
 広瀬章人竜王の先手で相掛かりの相浮き飛車。膠着状態を後手の豊島将之名人が打開していく将棋。打開されたことで先手は悲観してしまったようですが,終盤まで接戦が続いていました。
                                        
 後手が歩を突いた局面。この手は実際は疑問手で,☖3七と☗同金☖3九龍と進めなければいけなかったそうです。ここで☗4九歩ならまだ熱戦が続きました。
 実戦は☗8七飛としましたがこれが敗着。☖8六歩☗同飛☖8五歩となって飛車を逃げているわけにはいきませんから☗4四歩☖同金右☗4一角☖6二玉☗7一銀☖同玉☗6三角成と攻め込んでいくほかなくなりました。
                                        
 第2図は後手玉は詰めろですが先手玉は☖5六歩以下の即詰み。結果的に本来は疑問だった指し手が生きる展開となりました。
 豊島名人が連勝。第三局は一昨日と昨日でした。

 真の観念idea veraが確実性certitudoと等置されなければならないということ,あるいは同じことですが,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の中に含まれている矛盾のうち,真の観念が確実性と等置されている部分の方が正しいのでなければならないということは,第二部定理四三から明白だといえます。そしてスピノザは続く備考Scholiumの中で,このことを確実性と絡め,それ自体で明白であるとまでいっているのです。
 「真の観念を有する者は誰でも,真の観念が最高の確実性を含んでいることを知っているからである」。
 スピノザはこの備考の続く部分で,観念は画板の上の絵ではないという意味のことをいい,このことを知っているなら,真の観念が最高の確実性を有すると知ることができるのだといっています。実際の文章は反語的に,観念が思惟の様態cogitandi modiであると思わないならばこうしたことは分からないだろうといっているのですが,意味合いとしては同じだといっていいでしょう。さらに続けて次のようにいます。
 「あえて問うが,前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか」。
 これらのいい方は,確実性を真の観念と等置しているというよりは,真の観念の観念と等置しているというようにも解釈できますが,ある人間の精神mens humanaのうちにXの観念があるのであれば,その同じ人間の精神のうちにはXの観念の観念idea ideaeも存在することができます。このことは,表象像imagoについての説明ではあるものの,第二部定理二〇から明白です。この定理Propositioでいわれている,同様の仕方で神Deusに帰せられるという部分に注目すれば,その帰せられ方は,観念が誤った観念idea falsaであろうと真の観念であろうと同一でなければならないからです。そしてここで確実性ということを考察するときには,ある人間が自分の精神のうちにある観念について,それに確実性を有することができるのかということが問題となっているのですから,仮に確実性が真の観念の観念と等置されているのだとしても,それは真の観念と等置されているのと同じことだと考えて差し支えないということになります。
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